ベトナム戦争勝利50周年
今年の4月30日はベトナム戦争勝利の50周年である。われわれはベトナム戦争を忘れないし、許さない。この戦争を忘れ、許す者と闘う。この戦争の最大の教訓は、米帝とそれに追随する国を平和の敵、人類の敵と見なして闘うことである。
ベトナム共産党中央委員会トー・ラム書記長は、50周年に際してベトナムの党と人民の誇り、世界の人民への感謝を述べた。「ホーチミン主席の『ベトナムは一つ、ベトナム人民は一つ』という宣言が、戦火の中で途方もない力となり、数百万人のベトナム人が『祖国の生存のために犠牲を払う』という決意で戦場へと向かう力となったこと、この勝利がアジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地の民族解放運動に力強い弾みを与えたこと、そしてベトナム人民の大義、団結、不屈の意志に、世界中の友人、進歩的な勢力、そして平和を愛する人々の心からの支援が結合すれば、小国であっても何倍も強い勢力を打ち破ることができるということを国際社会に証明した」と。
ちょうど1年前の本紙109号(ディエンビエンフーの勝利70年を祝う民族解放の新しい時代を切り開く )は、ベトナム軍がフランス帝国主義の軍隊をディエンビエンフーの戦いで殲滅し、「西洋の大敗北」を明瞭にし、宗主国フランスをベトナムから追い出した勝利の70周年を論じた。今年はそれに続いて、敗退したフランスに代わって米帝国主義が公然と軍事介入し、ベトナム南部を傀儡政権を通じて分断して植民地支配し、北のベトナム民主共和国の南部支援と社会主義とを破壊しようとした戦争の敗北からの50年なのである。改めてこの抗米救国戦争勝利の意味を明らかにしたい。
50年前の4月29日の夕方、米国の軍人、民間人が米軍ヘリに乗り込み米大使館屋上から逃げ去る光景や、4月30日の朝、アメリカ大使が星条旗を小脇に抱えて公邸から逃げ出す光景や、正午に南ベトナム大統領官邸へ南ベトナム解放民族戦線の戦車が突入し解放軍旗をバルコニーに掲げる光景は、世界中の反戦平和、反米反帝、反植民地主義の全ての勢力がこぞって歓喜した瞬間であった。暴虐と戦争犯罪の限りを尽くした米帝国主義の完全な敗北を、世界に知らしめた歴史的瞬間であった。ベトナム人民はついに最後のベトナム植民地支配者の米帝国主義を追い出した。植民地支配に対するべトナム人民の117年もの長い苦難の闘争の偉大な歴史的勝利であった。翌年の1976年7月2日、ベトナムは民族を再統一し、国名に社会主義を明記し「ベトナム社会主義共和国」の樹立を高らかに宣言したのである。
(編集局)
最大最強のアメリカ帝国主義との戦争
1954年5月7日のディエンビエンフーの歴史的勝利によって開かれた7月のジュネーブ和平会議は、ベトナム民主共和国とフランスとの間で、北緯17度線を境にベトナムを南北に区分し、統一のための国民投票を1956年に実施するというジュネーブ協定をとり決めた。しかし、抗仏戦争の末期に既にフランス軍事支出の70%を支援してきた米国は、共産主義者の勝利を阻むために国民投票を拒否し約束を反故にした(アイゼンハウアー米大統領は後に「人口の80%はホーチミンに投票しただろう」と語った)。
米国は反共傀儡政権を南部に擁立し、南部にいる共産主義者、民主主義者、民族主義者、宗教者に対する殺戮と迫害を強行した。米帝国主義は、フランス帝国主義に代わって、公然とベトナムの再植民地化に乗り出し、時代の歯車を逆転させ始めたのである。もはや南北の選挙を通じた平和的統一の可能性はなくなった。あるのは武装闘争を通じた軍事的統一の可能性だけとなった。しかも今度の敵は前回とは根本的に異なる。フランス帝国主義はナチス・ドイツに降伏し弱体化した敵であったが、米帝国主義はただひとり本土を戦場にすることなく、さらに強化して第二次世界大戦から抜け出た最大最強の敵である。
北のベトナム人民軍は、早くも59年5月ホーチミンルートを再開・維持・強化するために、ベトナム南北を走りラオスとカンボジアに接する山脈の名にちなんだ「チュオンソン軍団」の結成を決定した。1960年12月「南ベトナム解放民族戦線」(以下、解放戦線)が結成された。その闘争の目標は、アメリカ帝国主義からの民族独立、ゴ・ディン・ジエム傀儡政権の打倒、人民権力の樹立、そして国家の再統一である。再びホーチミンルートを大動脈にして南部を解放する軍事体制が整えられた。
北爆及び直接大規模軍事介入との対決 「我々は平和を愛するが、戦争を恐れない」
米帝は傀儡政権を使った統治政策では解放戦線を倒すことはできず、逆にますます劣勢に追い込まれた。米帝は撤退するか公然と介入するかの選択に直面し、後者を選択した。この目的のために起こしたのが1964年8月の「トンキン湾事件」であった。これは、ベトナム北部のトンキン湾に入った米駆逐艦が北ベトナム艦船に攻撃されたというウソをでっち上げ、報復攻撃を議会に承認させ、1965年から独立国家北ベトナムへの公然たる爆撃を始める謀略であった。帝国主義の代表者らは「象と蟻」との戦いだと揶揄した。
その時、ホーチミンは国民議会で世界を驚かす次のような歴史的演説を行い、解放戦争は全人民の総力戦、人民戦争となった。「アメリカのジョンソン大統領は、武力によって我が国を屈服させると脅している。しかし、それは愚かな幻想だ。我々は平和を愛するが、戦争を恐れない。ベトナムは一つの国、ベトナム国民は一つの民族である。アメリカ帝国主義者は南ベトナムから撤退し、北ベトナムへの攻撃を即時停止しなければならない。これがアメリカ帝国主義者に対する我が国民と政府の答えである」。「わが国は社会主義陣営の前哨地であり、帝国主義、植民地主義、新植民地主義に反対する世界諸国民の闘争の前哨地であるという栄誉を有している。私たちは、他の民族の自由と独立のため、そして世界の平和のために戦い、苦しむ。そうすることで、私たちは困難だが名誉ある任務を遂行しているのである」
テト攻勢が戦局を大きく転換

WIKIMEDIA COMMONS

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1968年初頭、テト(旧正月)攻勢は南ベトナム全土で始まった。解放戦線は、サイゴンの敵勢力の中枢に進軍し、アメリカ大使館、大統領官邸、ラジオ局、軍司令部と中央警察を攻撃した。この攻勢の過程で、5万人の敵兵、1500機の飛行機、ヘリコプターを無力化した。
軍事超大国アメリカは、パリでベトナム政府と交渉することを余儀なくされ、遂に、アメリカの大統領選挙の直前に、反戦運動の圧力によって北ベトナムへの爆撃の完全停止を決定した(1968年11月)。翌年、戦争の真っただ中に、解放戦線は南ベトナム共和国臨時革命政府を選出する全国会議を開催することに成功した。その結果、南ベトナムのほとんどの村、都市、省で「民衆委員会」が選出されるようになった。「我々は自分たちの国を持っている」というのが、世界へのメッセージであった。そして1973年1月、「ベトナム和平協定」(パリ和平協定)が成立し、3月29日、米軍戦闘部隊はベトナムからの撤退を完了した。
今日の大量虐殺、民族絶滅の原型となったベトナム戦争
米帝国主義のベトナム戦争の目的は、アジアの共産主義化阻止であり、そのためにベトナムを降伏させること、さもなくば国家と民族を壊滅させることである。不屈の人民に対してとられた手段は後者であり、相手を人間とは見ない残虐性、激しい人種差別性に貫かれた、非人道的な攻撃であった。

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米軍は、延べ260万人、最大時55万人の兵力と2万3千人の軍事顧問団を投入し、米軍が2発の原爆を含めアジア・太平洋戦争で日本を爆撃した量のなんと約90倍もの弾薬をベトナム及びインドシナに投下し、5万8千人の死者を出し、敗北し撤退した。解放戦線側では、330万人のベトナム人、数十万人のカンボジア人、数万人のラオス人が亡くなった。ベトナムでは今なお耕地の18%は地中に埋まった不発弾のため耕作できない。これが「自由と民主主義の国」「人権の国」の正体である。
米軍の大量殺戮は、その後のアフガニスタン・イラク・リビア・シリア、そして今日のイスラエルとの共謀によるパレスチナ大量殺戮、民族絶滅戦争の原型になった。とりわけ特筆すべき戦争犯罪は、ソンミ村住民虐殺や枯葉剤散布である。

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(1)ソンミの大虐殺
1968年3月、米軍は歴史から消えることのない計画的な組織的大虐殺を実行した。解放戦線の勢力の強い地域であった南ベトナムのクアンガイ省ソンミ村ミライ集落を襲撃し、非武装・無抵抗の村民504人を虐殺した。生存者はわずか3人であった。早朝9機のヘリコプターから降り立った米兵は、民家と避難壕を捜索し、人が出るそばから射殺し、避難壕には手榴弾を投げ込み殺害した。村民を一か所に集め一斉に機銃掃射を浴びせ、その場だけで170人が殺された。村のいたるところで家屋や家畜を燃やし去り、村は灰燼に帰した。米政府の1年半もの隠蔽を経てこの未曾有のジェノサイドが暴露され、世界的な反戦運動の高揚を巻き起こした。
(2)人民と国土を破壊した枯葉剤作戦~米国は被害を補償せず
米帝は解放戦線の攻勢を阻止するために1960-71年に枯葉剤作戦を実行した。特に劣勢に追い込まれ、更に枯葉剤の猛毒性が完全に確定した60年代後半に散布面積を急拡大した。枯葉剤を散布し森林・ジャングルを枯死させ裸にするのには二つの目的があった。解放戦線が身を隠しゲリラ活動をするのをできなくすること、もう一つは、人類史上最も恐ろしい化学物質であるダイオキシンで食料と土地を奪い自然まさに未来永劫に渡るベトナム人民へのジェノサイドをめざしたのだ。枯葉剤を合計260万haに約8000万㍑も撒き、大量破壊兵器として使用したのである。
その結果、多くの人が先天異常(脊髄、四肢、心臓、口蓋などの形成に障害をもたらす変化)を持って生まれ、二代目、三代目、そして四代目も被害者となり、苦しみは続いている。210万人~480万人のベトナム人、ラオス人、カンボジア人、そして数万人のアメリカ人が枯葉剤/ダイオキシンに被曝した。ベトナム人は、汚染された環境や食品との接触を通じて現在も被曝し続けている。1973年のパリ和平協定において、ニクソン政権はベトナムへの賠償と戦後復興のために30億ドルを拠出することを約束したが、この約束は未だ果たされず踏みにじられている。
英雄的なベトナム人民 三大革命勢力の団結の歴史的勝利
ベトナムの現代史は、帝国主義列強の植民地支配との戦いの歴史である。1858年からフランスがベトナム植民地化を推し進め、1940年まで支配した。その後、ナチス・ドイツのフランス本国占領をチャンスと見た日本帝国主義が、200万人の飢餓を生み出し45年の敗戦までベトナムを占領支配した。8月14~15日、インドシナ共産党大会は総蜂起を決定し、成功裏に遂行し、9月2日ホーチミンはベトナム民主共和国の独立を宣言した。しかし、帝国主義列強は独立を決して認めようとはしなかった。すぐに舞い戻ったフランス帝国主義との1954年ディエンビエンフーで勝利するまでの戦争、さら1975年ベトナム完全解放までの米帝国主義との戦争を戦い抜いたのである。
べトナム人民は、フランスによる植民地化、日本の植民地支配、戦後なお30年間(仏と9年間、米と21年間)の植民地支配に対して戦い続け、最後のベトナム植民地支配者の米帝国主義を追い出すまで、117年間のほぼ途切れることのない長い植民地支配と戦い勝利した不屈の英雄的人民として世界史に刻まれている。人民を鼓舞し続けたホーチミンは、1969年9月2日亡くなり、ベトナム完全解放の日を見ることはできなかったが、彼の遺志はその6年後にベトナムの党と人民が見事に実現したのである。
ベトナム戦争は世界最大最強の米帝国主義を史上初めて敗北させた戦争である。ベトナム人民の不屈さと英雄主義は勝利のための第一の原動力であった。だがそれだけではない。当時の社会主義のソ連や中国の政治的・軍事的支援は不可欠なものであった。さらに、米国政府の深刻な孤立化をもたらした、米国をはじめ先進国や途上国の労働者階級と人民、市民や学生の空前のベトナム反戦運動の高揚があった。つまり、この勝利は小さな貧しい社会主義国の不屈の人民と三大革命勢力との連帯と団結が可能にした輝かしい歴史的勝利であった。そして全世界の新旧反植民地主義闘争を鼓舞するものとなった。
同時に、米帝国主義の敗北は、第一次大戦以降覇権を握り戦争で敗れたことのない米帝の衰退の始まり、時代の転換を告げるものとなり、米帝衰退の現段階へと確実に繋がっている。
日本帝国主義の加担責任~反米反帝反戦運動の復活を
日本帝国主義は、ベトナム戦争中一貫した米帝国主義の加担者であった。日本政府は一貫して米政府を支持した。北爆は沖縄米軍基地を発進したB52戦略爆撃機によって行われた。解放戦線を砲撃する戦車や装甲兵員輸送車の修理は、米陸軍相模総合補給廠で行われ、横浜港から再びベトナムに送られていた。これに反対し座り込む72年夏の「戦車輸送阻止闘争」は、100日間にわたって戦車を止めた。国内のベトナム反戦闘争の力を示すものとなり、日本中の反戦平和運動を勇気づけ高揚をもたらした。このベトナム反戦の運動に関わった労働者、学生や教員や学者、医師や看護師、一般市民の中から新しい若い活動家の世代が生まれ形成された。
ベトナム戦争は社会主義と民族解放闘争に対する帝国主義戦争であった。その普遍的意義は今も生きている。米=イスラエルによるガザ全面制圧と大量虐殺が新たな段階に入った。パレスチナ抵抗勢力と人民は飢餓を強いられながらも頑強に抵抗している。今必要なのは世界と日本の連帯闘争である。そして米日帝国主義による社会主義中国に対する戦争準備が加速している。今こそ、ベトナム反戦の反米・反帝反戦の伝統を復活しなければならない。
ベトナム社会主義共和国万歳!
プロレタリア国際主義万歳!
パレスチナ人民の民族解放闘争と連帯しよう!
対中戦争ではなく日中平和友好を!