「中国貧困撲滅の闘い」(その2)
党員の人民奉仕を熱烈支持する中国 人民中国ドラマ
貧困脱却に奮闘する『山の娘』

「山の娘」は、中国の貧困脱却に奮闘し、命を落とした共産党員黄文秀(ホアン・ウェンシウ)を描いた実話だ。「中国テレビ★大富チャンネル」が今年7月14日から40話で放映した。

貧困脱却は、中国人民の長年の悲願であった。経済成長著しい中華人民共和国の中にあって、農村部の貧困は数年前まで取り残されていた。都会から遠く離れ、険しい山岳地帯にある農村部での貧困脱却は、極めて難しい課題であったからだ。「難関攻略戦」と位置づけられ、中国共産党が全力を挙げて取り組み、「農村貧困層すべてが貧困脱却を実現」したと宣言されたのは、2021年2月25日のことだった。

 この偉業を達成するために、数百万人の中国共産党員が農村に派遣された。そして、家族の一員のように親身になって貧困者の声を聞き、家庭によって異なる貧困の実態を把握し、貧困脱却の具体策を共に考え、率先して働いた。その過程で、1800人余りが殉職している。黄文秀もそのうちの一人で、深夜の山道で鉄砲水に襲われ30歳の生涯を閉じている。

 中国の貧困脱却がいかに困難なものであったか、その実態は日本では全く知られていない。「社会主義なら当然」と簡単に言うような生やさしいものではなかった。それは人民のために全てをなげうって奮闘した中国共産党員の努力なしには決して成し遂げられなかった。ドラマ「山の娘」が描き出した貧困脱却の苦闘の一端を紹介したい。

全ての人が金銭面で悩まないようにし、暮らしに必要な設備と環境を用意する

 黄文秀は、広西チワン族自治区の山奥の貧困家庭に生まれ、小さい頃から薪拾いなどの労働を経験している。彼女は中学生の頃に役人になりたいと思った。それは、「郷でも、県でも任された場所を楽園にしようと思った」からだと語っている。彼女にとっての楽園とは、「1つ目は豊かさ、これは貧困脱却の基準を満たした豊かさではない。全ての人が誕生した後、成長して年老いていくまで金銭面で悩まないようにするのよ。2つ目は、農村から世界に目を向ける。それに幼稚園、高齢者施設や遠隔医療などの設備も充実させたい。全世代の人々の暮らしに必要な設備を用意して、環境を整えたい」というものだった。

 高校生になるまで牛乳が白いことも知らなかった彼女は、長治学院に入学後に共産党に入党する。学校でのボランティア活動に熱心に取り組み、レストランのアルバイトでは、受付、席案内、料理注文の聞き取りなどテキパキとこなし、トラブルにも的確に対応した。そんな様子を数人のグループが観察していた。優秀な人材を貧困学生から発掘し支援する無錫(むしゃく)慈善教育支援総会の人たちだった。支援を得て、勉学に励んだ黄文秀は北京師範大学哲学学院の思想政治教育修士課程に進む。

貧困撲滅の闘いに参加する 杜甫の詩に込められた決意

 大学院卒業の際、進路に悩む黄文秀の前に広西特定選抜学生広報団が現れる。黄文秀は、広西の貧困の実態を示す写真や動画を見せられ、大きく心を揺さぶられる。広西の貧困の実態を知ってから、貧困撲滅の闘いに参加する決意が固まっていく。広西公報団の話を聞いた次の日、目覚めるとすぐに机に向かう。エドガー・スノーの著作、「RED STAR OVER CHINA」(日本では「中国の赤い星」の書名で知られる)に挟んであったしおりに杜甫の詩の一節を記し、貧困撲滅の闘いに参加する決意を示す。

 「安得広廈千万間(安くんぞ得ん広廈の千万間) 大庇天下寒士倶歓顔(大いに天下の寒士を庇ひて倶に顔を歓ばせん)」。(「どうにかして千間や万間もある大きな家を得て、大いに天下の貧しい人々をその中に収め、一緒に顔をほころばせたいものだ」)

 この決意を固めていく場面は人間の最も美しい姿を描いたもので、厳粛で感動的だ。

 黄文秀は自らの貧困脱却のため父親が勉学の機会を与え運命を変えてくれたことに感謝してきた。父親を見習い、故郷の貧しい子どもたちに未来を与えたかった。「現実を知ったのに北京に留まっていられない」「人々は農村を出たら戻りたがらないけど戻る人も必要」「それが私」。このように考えた黄文秀は、2018年4月、村駐在貧困扶助第一書記に申し込み、広西チワン族自治区百色市楽業県新化鎮百○(土偏に尼)村の第一書記に任命された。

女性差別と家父長制が残る農村で苦闘

 バイニー村に来てからは、住民の生活実態の把握に努めた。女性差別と家父長制が残存する農村での活動は困難を極めた。バイニー村は山岳地帯にあって、村と集落の距離が10㎞離れている場所もある。狭く険しい山道での自動車の運転は、ペーパードライバーだった彼女にとって怖いものだった。それでも赴任1年後には走行距離が2万5000㎞に達している。自動車の通れる道路が無くなった先にある家を目指して坂を上り吊り橋や丸太橋を渡った。苦労して家にたどり着いても居留守を使われたり話を拒否されたりすることも多かったが何度も通った。独居老人の住む家に定期的に通い身の回りの世話をした。ゴミが散乱していたり、衣類や寝具が汚れているのを見つけては、掃除や洗濯を率先して行った。

 黄文秀が村中を朝から夜中まで駆け回る姿は、住民の心を掴んでいく。貧困に陥っている原因は何か、貧困者が何を考えているか、苦労して集めた情報で作られた「脱貧困戦略地図」には、全貧困家庭の場所を地図の上に青旗で示し、名前を書いた。貧困から脱したら、青旗を赤旗に差し替える。責任者の名前も書き込んで貧困脱却を支援する村幹部の積極性を高めた。地図を壁に貼り皆の励みとした。

協同組合は貧困に戻さない有効策

 貧困脱却には様々な方法があったが、その中でも貧困に戻らない有効な方策として協同組合の設立を追求した。決して強制せず、関係者の話し合いが重視された。先ず全ての農家とリーダーの意見を一致させる。次に何世帯の貧困家庭が加わろうとしているか、販売する企業、食品メーカー、薬品工場などの外部の力を借りられるか、が問題となった。そして全員の同意を得られる連携案を作り出す。協同組合の設立は、関係者が示す条件によって対応を迫られ、多様な形態となった。黄文秀は、複数の協同組合設立の経験を積み、他村の第一書記と共に貧困脱却の「楽業案」を起草している。これは、農村経済の持続可能な発展を保証し、人々の貧困状態への逆戻りを防ぐための案で、多様な協同組合の発展モデルや土地の請負や土地使用権の譲渡、関係者に対する合理的な分配原則、農民たちの利益が考慮されている優れたものであった。

協同組合の設立で資金調達

 足が不自由な女性の家では、子豚を手に入れ養豚をしようとするが子豚を死なせていた。「豚が死んで仕方がない」と諦め気味の担当者に養豚の技術を習得させる。そして、子豚を入手、育て始めたが、子豚に異常が発生する。豚小屋の材料の石材に毒があったのだ。石材の毒性検査を外部に頼むと共に異常になった子豚を回復させるために奮闘する村幹部の姿を見た女性は、「みんなで親切にしてくれた」と感謝し泣き崩れる。この女性が養豚業の模範となり、村全体で養豚業をする機運が高まる。しかし、村に養豚場を建設しようとするが、資金難に直面する。楽業農商銀行に相談すると、「協同組合」を作ることをアドバイスされる。「資金繰りが解決する上に、結束力も高まる」「皆が生産と経営に参画すれば将来的発展の力にもなる」。こうして、「バイニー村畜産協同組合」が成立した。

共産党員は危急の時に立ち上がる

 ビワ栽培も拡大していたが、利益の着服という不正を上司の販売責任者が働いていたことで、不公平感を強めた農民が栽培から離れ始めた。黄文秀は不正を追及する。「主任、ビワ栽培は貧困脱却を目指せる良い事業です。ビワ栽培面積を増やしたければ、違法な搾取をやめてください」。こうして不正を働いた上司は除去されたが悩みは尽きない。次の問題は、ビワの運搬を阻む雨とぬかるみの道だった。雨が続いてビワが腐る恐れが出てきた。焦った農民が雨の中、実を摘むが運搬するトラックは来ない。黄文秀はビワの実をかごに入れて人力で山道を運ぶことを提案する。村人1000人を動員し、1人30㎏のかごを背負い片道1時間の山道を5往復で運びきる重労働だ。雨の中、山道を歩く人たちの苦労する姿がSNSで拡散する。その動画を見た近くの村の第一書記が共産党員を引き連れて応援に駆けつける。共産党員は危急の時に立ち上がる。中国国歌、共産党入党宣言を想起する場面だ。

 黄文秀は、単に貧困を克服しただけではなかった。崩れかかっていた村の共産党組織を再建し、農村における共同体を再組織したのである。中国全土で繰り広げられた、このような「攻略戦」は文字通り、社会主義中国の発展の強固な基礎を築いていったのだ。黄文秀のドラマは語り尽くせない。このドラマを見れば、中国の強さを支えるのは共産党員の無償の人民奉仕、人民優先の生活、自己犠牲、奮闘などに引き寄せられた人民の熱烈な支持であることが良く分かるだろう。

(高)

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