<連載にあたって>
1973年9月11日、史上初めて選挙を通じて社会主義社会を目指したアジェンデ政権が倒された。ピノチェト率いる軍事クーデターによって社会主義の実験が武力で潰されたのだ。われわれのシニア世代の一部は、チリ革命の最初から最後まで、まさにこの歴史的事件をリアルタイムで経験した。その後の世代は、フォルクローレを通じて、チリ革命を学んだ。あれから50年が経った。
われわれはこの歴史的大事件を振り返り、今日にも通じる忘れてはならない教訓を改めて確認したいと思う。まず第1に、米帝国主義の一貫した凶暴性、残虐性である。200年前に米国が発した「モンロー宣言」以来、米帝国主義はラテンアメリカに対する残忍な支配権を確立し、米に逆らうものをどんな手段を使っても叩き潰そうとしてきた。これは、50年前も今も変わらない。以下に、この50年間に暴かれた米国関与の事実を紹介する。第2に、アジェンデ政権の社会主義建設への着手が、米多国籍企業とオリガーキの支配を急速に掘り崩しはじめ、震え上がらせた。今も、米帝とグローバル金融資本は、米国を追い越そうとする社会主義中国に異常な階級的恐怖を抱いている。第3に、アジェンデは国際舞台でも、民族解放と新植民地世界体制打破のリーダーとしての役割を担った。1955年のバンドン会議は有名だが、その15年後にカストロと共にアジェンデがこの世界的な民族解放の仕組みを作ろうとしたことにあまり注目しなかった。
なお、アジェンデの社会主義革命をめぐる全面的な総括については、クーデター後にチリ共産党と国際共産主義運動内部で議論されたが、今日それがどうなっているのかはつかめていない。チリ共産党の研究を進める中で、次の機会に紹介したい。
目下、チリの左翼勢力と人民は、ピノチェット時代の強権と新自由主義的枠組みを色濃く残すピノチェット憲法の全面改正に向けて動いている。ところが、今年5月の憲法評議会選挙では、左翼勢力は敗北した。厳しい試練が続く。チリ共産党は、「チリには共産党が必要だ!」のスローガンを掲げ、「人民連合の道」、「アジェンデの道」を再び歩もうとしている。アジェンデの亡霊を復活させるときが来た! 『コミュニスト・デモクラット』編集局
ラモネダの戦い
戦車からの砲撃と空からの爆撃の猛煙の中で、アジェンデ大統領はモネダ宮殿(大統領官邸)にとどまり、銃をとって最期まで戦い続け、倒れた。有名なアジェンデの「最期の言葉」は、後世のわれわれに残された遺言である。
最期の言葉~「私は諦めない!」
私は諦めない! これらの出来事に直面して、私は労働者にこう言うしかない。歴史的な転換期に置かれた私は、人民への忠誠のために命を捧げる。そして、何千、何万ものチリ人民の尊厳ある良心に与えた種子は、永久に絶やされることはないと確信している。
彼らには武力があり、我々を抑えつけることができるかもしれないが、社会的プロセスは犯罪でも武力でも止めることはできない。歴史は我々のものであり、人民によって作られるのだ。
わが祖国の労働者たちよ、私は、正義への大きな憧れのただの表現者、憲法と法を尊重することを誓い実践した人間に、あなたたちが信頼を寄せ常に示してくれた忠誠に感謝したい。この決定的な瞬間、私があなたたちに話すことのできる最期に、外国資本、帝国主義は反動と一体となって、シュナイダー将軍によって教えられアラヤ司令官によって再確認された伝統を破壊する風潮を作り出したという教訓を、あなたたちに生かしてもらいたい。
私は、とりわけ、国の慎み深い女性、私たちを信じてくれた農民の女性、より懸命に働いてくれた労働者、子どもたちへの私たちの心配を知っていた母親に敬意を評する。
祖国の労働者たちよ、私はチリとその運命を信じている。裏切者らが押しつけようとするこの暗い苦しい瞬間を、他の人々が乗り越えていくだろう。遅かれ早かれ、より良い社会を築くために、自由な人々が通る大きな道が再び開かれることを知っておいてください。
『チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!』 サルバドール・アジェンデ
ラ・モネダ宮殿 1973年9月11日
社会主義政権転覆を計画・指揮した米帝国主義
クーデターは1973年9月に突如起こったのではない。アジェンデが大統領に当選した日の翌日1970年の9月5日の朝に、すべてが始まった。
米政府は、選挙の無効を騒ぎ立て、政情不安と社会不安を引き起こし、経済を窒息させ、生産と供給を妨害し、銅の販売と海外での債権取得を阻止した。当時の軍指導者ルネ・シュナイダー将軍は、米の「選挙無効―政治混乱―軍出動―再選挙」の謀略にきっぱりと反対した。そのために、選挙からわずか1カ月後の10月22日にCIAと極右グループによって暗殺された。
11月4日の大統領就任式が近づくにつれ策動が激しくなる。ロドリゲス率いる極右過激派の会合と準軍事組織の創設、PN議長による「ロランド・マタス司令部」の創設承認、農業実業家と金融グループの会合、CIAのクーデター計画(プロジェクト・フーベルト、トラックⅡ)、軍将校の陰謀、海兵同胞団の会合、米電信電話企業ITTと世界銀行の幹部によるチリ経済を締め上げるための会合、等々。これら全体を統轄し指揮するのは、リチャード・ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー安全保障顧問であった。
特にCIAとコリー大使率いる米大使館は、反革命の直接の司令塔になった。彼らは西側メディアとチリの保守系メディアを動かし、多額の米政府資金を使って反アジェンデ行動を煽動した。1971年12月、右派女性たちによる「空鍋行進」、1972年10~12月、流通をマヒさせたトラック運転手の3週間のストライキ、不安定化攻勢としての企業・使用者組合の側でのストライキやボイコット、1973年4月からの賃金倍増要求の銅鉱山労働者の70日間ストライキ。同年6月CIA、軍部、準軍事組織、右翼過激派によるクーデター未遂、翌7月、大統領の海軍副官であるアラヤ大尉の暗殺、8月、軍と警察の最高司令部が行政府に協力しないよう求める決議の相対多数での下院可決。等々。嵐のような反革命攻勢だった。
クーデターが差し迫る中で、アジェンデ大統領は、武装勢力の将軍たち、人民連合の指導者たち、彼の協力者たちと話し合い、9月11日の朝、政権の成り行きを決める国民投票を提起した。しかし、クーデター派は国の命運を人民の手に委ねることを恐れた。なぜなら、人民連合が、1971年の市議選で50%強、73年3月の議会選挙では43%の票を獲得し、大統領選挙時のアジェンデの36%を上回っていたからだ。人民連合は選挙組織から大衆動員組織へ変貌を遂げ始めていた。クーデターは直接にはこの国民投票を潰すためであった。
チリ革命の波及を恐れた米帝国主義血まみれの「コンドル計画」
クーデターは、単にチリ一国の政権転覆にとどまらない意味を持っていた。米帝国主義は、「裏庭」のラ米カリブ全体が、真の独立を求め、反米・反帝闘争を前進させることを何よりも恐れていた。チリを発端に連鎖的に革命が波及し拡大することを恐れた。米メディアはそれを「赤化ドミノ」と呼んだ。それに対決する政策が米の「コンドル作戦」(ラテンアメリカの親米反共独裁政権が組織的に行った暗殺や虐殺などのテロリズム活動)であった。まさしくチリのクーデターは、ラ米カリブ全体での反共絶滅作戦の突破口であった。「第二のキューバは許さない!」が合言葉だった。
ピノチェトの蛮行は、すぐにすべての人の想像力を上回り、「敵」と見なされる可能性のある人々を根絶する残虐性をむき出しにした。最初の1日で2700人を虐殺した。17年間のピノチェト独裁政権による人的犠牲は、4万人以上が死亡または失踪し、人口10%の100万人のチリ難民を世界中に追いやった。
アンデス山脈の反対側では、アルゼンチンのビデラ独裁政権(1976~83年)が3万2000人以上を殺し、さらに3万人を失踪させた。同時期に同様に残虐な軍事独裁政権が、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアにもつくられた。中央アメリカでは、米がニカラグアのサンディニスタ革命に11年間(1979~90年)戦争をしかけ、少なくとも5万人の死者を出した。エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラスで、米の訓練と資金提供で武装した暗殺部隊が、約30万人を殺し、これらの国々の農業と社会構造を徹底的に破壊した。米国への「不法移民」と呼ばれる人々を大量に生み出したのは、こうした米帝国主義の侵略と破壊行為であることを忘れてはならない。
多国籍企業・オリガーキ支配を崩し始めた社会主義的変革
アジェンデ政権は、「帝国主義者、独占、大地主の支配に終止符を打ち、チリにおいて社会主義の建設を開始する」という人民連合綱領の実現に奮闘した。銅山など主要産業の国有化や、地主から土地を接収して国営農場を創設するなどの農地改革を進め、労働者の権力参加、男女同一賃金、医療保障など一連の社会保障政策、大々的な住宅提供プログラム、公教育の拡充などの公約実現をおし進めた。国有化は以下のように推し進められた。
①1971年7月に議会における全会一致の承認を得て、米系産銅大企業が所有する5大銅山の国有化を実施。 ②中央銀行やCORFO(産業開発公団)などによる民間銀行の株式買上げを通じて、銀行を事実上の国家管理のもとにおいた。71年末までにほぼ終了し、72年末には政府が銀行の資金ポジションの95%、預金の96%を支配下においた(有力民間銀行の「チリ銀行」にたいしては完全支配にいたっていない)。 ③製造業の大企業、中堅企業の国有化。一定の条件を満たした場合に「接収」と「介入」を認めた法令を適用して、72年末までに200社以上の国有化を実現した(これらの国有化企業が工業生産に占めるシェアは22%、労働者数では18%)。
アジェンデ政権の時期に国有企業の比重は劇的に高まった。政権発足直後の1970年に68社であった国有企業は,政権崩壊直前の73年9月時点で596社まで増え、GDPに占める国有企業のシェアは、70年の14・2%から73年には39%にまで達した。
農地改革は、キリスト教民主党のエドワルド・フレイ政権下で施行され始めた農地改革法の短期完全実施を目標に、非常に速いテンポで進められた。72年8月までに「灌漑地基準面積」80ヘクタール以上の農場の接収をほとんど完了した。これによってチリの大土地所有制に史上初めてピリオドが打たれた。接収地には、先住民族にたいするごく一部の土地分与を除いて、農業集団化の既定方針通り、協同組合形態の「農地改革センター」と、国営農場に近い「生産センター」が設立された。これにより、フレイ時代の協同組合形態と合わせて約40%の農地が国有化されるにいたった。
アジェンデと人民連合の3年間は、チリ建国以来、経済に占める公的部門のシェアを最も飛躍的に拡大させ、社会主義経済建設に乗り出した正にその時期であった。それは即ち、米多国籍企業と国内のオリガーキとの結託と癒着による経済支配が、労働者階級と農民によって侵食され掘り崩されていくことを意味し、その現実に震撼したがゆえに、米帝国主義とオリガーキはクーデターに打って出たのである。
途上国の民族解放に奮闘したアジェンデ
1971年1月13日、アジェンデは、チリ大学の新しい労働組合学校の開校式で、「チリの経済に対する主権を確立すれば、社会主義への道が開かれる」と宣言した。
非同盟運動(NAM)が結成されてから10年後の1971年、チリはNAMの55番目の正式加盟国、ラテンアメリカではキューバに続く2番目の国となった。NAMとUNCTAD(国連貿易開発会議)は、新植民地世界体制を克服する新国際経済秩序NIEO(New International Economic Order)についての議論を活発に進めた。
途上諸国は、自国の天然資源を管理し、自国の産業能力を確立する必要性を中心に団結することで、新植民地主義的な不平等な世界体制を変革しようとした。
国連ラテンアメリカ経済委員会(ECLAC)では、1948年の設立以来、ラテンアメリカ全土の経済学者たちが、先進国の経済学者たちの「近代化論」を批判して「従属論」を展開してきた。この理論は、「中心国(帝国主義大国)が植民地時代の利益の再生産を通じて周辺国(発展途上国)を支配し、周辺国を原材料の資源と最終製品の市場として利用する不平等な貿易条件を通じて、世界は新植民地体制によって動いている」と主張した。この理論はチリの人民連合綱領と政府の政策に持ち込まれた。チリは新植民地世界体制を打破し、NIEOを樹立するプロジェクトの中心地となった。この点こそ、米政府と多国籍企業が、あらゆる手を使ってでもアジェンデ政権を潰したかった主要な理由の一つである。
1972年のプロジェクト・フーベルトUNCTAD第3回会議の開会式で、アジェンデは記念碑的な演説を行った。この会議の基本的な使命は、「時代遅れで根本的に不公正な経済貿易秩序を、人間と人間の尊厳という新しい概念に基づくより公正な秩序に置き換え、豊かな国だけを優遇し後進国の進歩を妨げている限りもはや容認できない国際分業を再構築することである」と。アジェンデは、「新植民地主義的、資本主義的な世界秩序から、人類の進歩のために尽力する世界秩序への転換」に取り組む必要があると主張し、次の5つの重要な問題を提起した。①通貨と貿易システムの改革、②債務負担の帳消し、③天然資源の管理強化、④技術や科学に対する国家の権利の承認、⑤平和経済の構築。
これらの課題は、まさに今年、8月の南アでのBRICS会議、9月のキューバでのG77+中国の首脳会議で(そして間もなく開かれる中国での一帯一路会議でも)、新興・途上諸国によって高く掲げられた。先駆的なアジェンデの途上国解放の夢が、50年後の今日、世界最大の途上国である社会主義中国が主導する形で実現に向けて動き出した。
(渉)