パレスチナでは、イスラエルによる大虐殺・民族浄化が行われ、人間のすることなのかと疑いたくなるような映像が流れてきていた。この1年以上、パレスチナ連帯の声をあげ続けてきた。そんな中で、中国訪問の機会を得た。この機会に日本の植民地支配の歴史を学びたいと思い、平和運動団体のメンバー3人で中国の東北部、「偽満国」(旧満州国が中国ではそのように表現される)へのフィールドワークを行った。イスラエルの行っている大虐殺・民族浄化作戦は、まるでホロコーストのようだと思ってきたが、違った。中国の方にとっては、イスラエルはかつての日本なのだ。日本人として、それを心に強く刻むこととなった。
(S/K)
旅をしてきたところ

旧満州国の中心は、中国の東北部、現在は瀋陽、当時は奉天とよばれた街にある。当時の日本の建物も多く残る。私たちは、北京から高速鉄道で3時間ほどの瀋陽の中心部よりさらに北東にタクシーで15分のところにある「九・一八歴史博物館」、東に1時間ほどの「撫順平頂山惨案記念館」、そして撫順炭鉱へのフィールドワークを行った。
九・一八歴史博物館
①九・一八は中華民族の屈辱の日
「九・一八事件」は日本では「柳条湖事件」と呼ばれるもので、「満州事変」のきっかけになった事件だ。この事件が起こった「1931年9月18日は常に中国人民の心に刻まれる日」である。
九・一八歴史博物館の最初の記述は、「日本の侵略者は横暴に九一八事変を起こした。それから14年間、日本の侵略者が中国で様々な戦争犯罪を犯した。数千万の中国人民は塗炭の苦しみに陥り、数えきれない物質的財産が乱暴に略奪され、中華民族の尊厳は踏みにじられた。この日から14年の歳月にわたって、日本の侵略者に対する中国人の反抗の火は中国全土で燃え続け、無数の中国人が熱血と生命により、天地を動かした抗日の歌を綴った。1931年9月18日は中華民族の屈辱の日であり、中国人民は決して忘れられない」と記されている。
②帝国主義日本国家の植民地支配
博物館では、日本の植民地支配の歴史について、「明治維新後、日本は資本主義の道を歩み始めたと同時に、対外侵略と拡張の道も歩み始めた」という記述から始まり、日清戦争、日露戦争、偽満国による支配、撫順炭鉱などでの資源略奪など、丁寧に説明されている。
〇1894~95年日清戦争
朝鮮の支配権をめぐって清(中国)との闘い。結果、日本は、中国の遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲させ、賠償金を取り、清の4つの港を開港させた。この時点で、既に、南満州鉄道の最南端の遼東半島を支配下に収めた。
〇1904年日露戦争
中国東北部の支配をめぐってのロシアと日本の闘い。結果、1905年にポーツマス条約を結んで戦争終結。ここで日本が得たものは、朝鮮半島の支配権や南満州鉄道と付属するものであった。ポーツマス条約に基づき、日本は1906年に、国策会社「南満州鉄道株式会社」を設立。この会社は、鉄道だけでなく、付属地の経営も委託され、そこに撫順炭鉱の経営も含まれていた。実際、ポーツマス条約には、鉄道と付属物となっていただけで、炭鉱の経営権は入っていなかったのだが、日本が力ずくで奪いとったのだ。
〇1928年6月4日 「皇姑屯事件」
日本は満州の地を完全に征服するための策略を練る。その一つが、1928年6月4日に起こした、張作霖爆殺事件、中国では「皇姑屯事件」と呼ばれる。鉄道を爆破して、日本の意のままに動かなくなった張作霖を殺害。これを中国の仕業と言いがかりをつけて、日本は軍事行動を起こして一気に南満州を手中に入れる計画をしていたが、この謀略はここでは、不発に終わる。
〇1931年9月18日「9・18事件」
日本では「柳条湖事件」と呼ばれるものであり、「皇姑屯事件」と同様、日本の自作自演ではあるが、これが満州事変の発端となり、軍事衝突が起こる。ここから日本は満州全域を手中に収めていくことになる。
書籍「観光コースではない満州」(小林慶二著)の記述によると、当時の日本陸軍の中心人物である永田鉄山は、「第1次世界大戦では戦闘機や飛行機などの機械による戦争になった。次の戦争では機械を大量生産しなければならない。工業力や技術力、労働者や資源が必要」「資源がたくさん産出される満州を確実に掌握すべき」と言って、満州の地を掌握するように推進していたとのこと。植民地支配、戦争を続けていくために、満州の地、特に撫順炭鉱という大きな資源が重要だったのだ。
③偽満国設立と日本の支配
博物館の記述によると、「九一八事変を起こして、進歩的な国々に非難された一方で、一部の大国政府と国際組織は、自らの利益のために日本帝国主義の侵略行動に対して中立的で干渉しない政策をとったために日本帝国主義の侵略する野心を助長」していった。今で言えば、イスラエルによるパレスチナの虐殺行為を批判せず、それどころか支援するような米・欧諸国・日本の姿勢が、イスラエルを助長しているのだ。当時の帝国主義国家日本の侵略に対して、世界はまさに同じ態度を取っていたのだ。
そして、日本は中国人の中の裏切り者たちを集めて統治し始める。清国の皇帝だった「溥儀」をつかって、傀儡政権である偽満国を1932年3月1日に建国。「独立国」に見せかけ、日本軍がすべての実権を握ったのだ。
④残虐極まりない日本の支配
博物館の記述によると日本は「偽満国の人々を恣意的に惨殺、虐殺、奴隷化していった」「抗日武装勢力もあったけれど、日本は必死に鎮圧していった」。そして偽満国では、文学、芸術、放送、映画、出版、教育、宗教などすべてにおいて文化的侵略を行い、植民地支配していったのだ。
日本は、中国人を人間とみなさず、犬以下の存在として残虐な支配を続ける。博物館では、「日本軍に虐殺された罪のない百姓たちの首」や、「日本軍は無実の人を殺した後、電柱に首をぶら下げ公開した」という写真なども展示されていた。
この時の状況を書籍「中国の旅」本多勝一著から少しだけ紹介する。
「集められた労工。黒河省金水駅で降ろされた。2人が脱走。まもなくつかまり連れ戻された。2人は裸にされ後ろ手に縛られ、木の枝にぶら下げられた。『見せしめ』として公開虐待。叩きのめし気絶すると水をかける。乱打、気絶、冷水、乱打。まだ生きている。ふらふらの2人を飢えた軍用犬に食わせる。たちまち音を立てて喰われた」
⑤「抗日運動」と日本軍による大虐殺
中国東北部は、もともと中国人が生活し、撫順炭鉱を含め中国人が運営していたものだ。しかし、軍の力で奪いとり侵略していった。中国共産党はすぐさま「抗日運動」を組織し抵抗を示した。これに対し国民党の蒋介石は、「安内攘外」という方針で、共産党の絶滅をはかるために日本に譲歩して闘わなかった。
日本軍としては、満州の地を掌握するために、「抗日運動」の鎮圧に躍起となった。そんな中起こったのが、1932年9月16日の撫順平頂山での大虐殺事件だ。中国住民への大虐殺は、南京大虐殺でも知られているが、南京大虐殺は1937年12月のこと。これよりも5年も前に日本軍による中国人大虐殺は始まっていたのだ。
撫順平頂山惨案記念館
①平頂山事件とは
1932年9月16日午前、中国を侵略した日本軍(撫順守備隊、憲兵隊、警察署と炭鉱防備隊)は総出動し、撫順炭鉱近くの平頂山集落の非武装の住民2700~2800人を平頂山の下に追いたて、集団虐殺を行った。続いて、逃げ遅れた千金堡・栗家溝集落の200人あまりの住民を殺戮した。虐殺から幸いにも逃げ出した数十人を除いて、三つの村の老人、女性子どもを含む3000名以上の無辜の住民が犠牲となった。凶行後、日本の侵略者は死体を焼き払い、山を火薬で爆破して、死体を埋めてしまった。これが中国国内外を驚愕させた「平頂山事件」である。
②平頂山惨案記念館

記念館に入る前に私たちを出迎えてくれたのは『破壊』という平頂山虐殺をテーマにした高さ15㍍のモニュメントだ。形状は歴史の本をひっくり返したようなもので、主要な彫像の中央は平頂山事件当時の悲劇の瞬間を再現している。多大な犠牲を表す3000という数字は、この悲劇的な歴史を永遠に忘れないよう、後世へのメッセージ(警告)が込められている。
九・一八歴史博物館と同様に中国語・英語・日本語の3か国語で展示内容を読むことができる。撫順の中心から離れたところに位置している関係もあり来館者はそれほど多くはないものの、館内の薄くらさと静けさがしっかりとこの歴史と向き合う空気感を私たちに与えてくれる。
展示中盤に差し掛かかると、平頂山虐殺事件の現場がリアルに再現された幅10㍍の石像が現れる。当時平頂山の西側の丘付近に展開していた集落を日本軍の3台のトラックが包囲し、そして着剣した銃の兵隊たちが2、3㍍おきの間隔で一列に並び、追出した村人ちの群れを西側にある丘のがけぎわに追い立てていった。浅く広い窪地に兵隊たちが住民を追い込み座らせたところで機関銃を積んだ第二陣のトラックが現れ、それを地面におろして並べると日本軍は村人たちの固まっているがけ下をめがけて一斉に射撃したという(書籍「中国の旅」本多勝一著より)。石像はその一斉射撃によりできた幾重にも重なる遺体の山、そして子どもや女性を銃剣で突き殺す日本軍の無表情な顔つきが一つ一つ再現されている。
石像とあわせて、現地の村人の日用品が展示されている。硬貨、鍵、文房具、食器、アクセサリー、炭になった月餅やおにぎりまでも出土しており、そこには人々の平和な暮らしの営みが存在していたことを示している。記念館全体としては日露戦争からこの虐殺事件の生存者による日本政府へ損害賠償請求を求めた裁判までの内容が展示されており、侵略の歴史の記述が数行で終わってしまう日本の現状に比べると大違いである。平頂山虐殺事件当時の悲惨さを再現した彫像が静かに観覧者の心に訴えかけてくる。

③平頂山惨案遺跡
次に向かったのが記念館の敷地内にある『平頂山惨案遺跡』という長さ80㍍、幅5㍍(ガラス張り)の納骨堂プールで、800人を超える平頂山事件で虐殺され焼き払われた人々の遺骨が、発掘された当時の恐ろしい姿を保っている。苦しみ叫び声をあげたままの表情、子どもを抱いたまま横たわる母子の姿、銃剣で頭蓋骨を突き刺され大きな跡が確認できる遺骨などがありのままに展示されており、安らかな表情で横たわっているものなど一つもない。この大量の遺骨を目の前にして震えが止まらず、しんとした館内で現場の阿鼻叫喚が聞こえてくるようで思わず目と耳をふさぎたい気持ちであった。これが現実に、ほんの90年前に日本軍が起こした蛮行の動かぬ証拠である。
撫順炭鉱博物館
最後に向かったのが『撫順炭鉱博物館』で、平頂山惨案遺跡からタクシーで15分ほど西に向った先にあり、そこでは撫順炭鉱の日本の満州経営時代の歴史、採炭技術の変遷、炭鉱労働者の生活などの資料が展示されている。さらに館外では長さ約6・6㎞、幅約2・2㎞、深さ約400㍍の巨大な撫順西露天掘り炭鉱を一望でき、さすが「アジア最大の露天掘り炭鉱」といわれるだけあり圧巻の光景だ。現在この露天掘りは長年の採掘により枯渇が進み採掘量が大幅に減少、2019年撫順市は生態回復作業に着手することを決定した。
炭鉱の穴を埋める方式で鉱区の生態環境の改善をはかるとのことで、かつては埃まみれで多くの労働者でごった返していたであろう撫順西露天掘り炭鉱は今では緑が生い茂り、「 持 色 展建 生 (持続可能な開発を堅持し環境にやさしい鉱山を建設する)」のスローガンが掲げられている。110年以上採掘に貢献してきた露天掘りは受動的な採掘から秩序ある管理に移行し始めている。撫順平頂山惨案記念館を訪れた際は是非、撫順炭鉱博物館にも足を運んでほしい。
歴史は最高の教科書であり自省するための薬でもある

九・一八歴史博物館では、「中華民族の屈辱の日」で決して忘れないと記すとともに、「歴史は最高の教科書であり、自省するための薬でもある」「中国は常に平和発展の道を揺ぎなく歩み、世界のすべての国と共同で平和発展の道をたどり、人間が生きている惑星が永遠に平和を維持できることを願っている」、そして、「歴史を忘れることは裏切りを意味」するのだと、日本の議員たちが靖国参拝する写真をも展示している。
その上で、「日本軍国主義の侵略の歴史をわい曲し、美化しようとする言動を中国人民やアジアの被害国人民は受け入れることはないし、正義と良識のある日本人民も受け入れることはないと信じている。歴史を銘記することは未来を開くためであり、戦争を忘れないのは平和を守るためである」とし、歴史から学び、平和を守っていこうというメッセージが投げかけられている。
中国への植民地政策を行い、残虐行為を行ったのは、日本軍だけではない。日本国としての政策、そして日本国民あげて、資源豊かな広大な満州の地を侵略していったのだ。私たちはそのことを心に刻み、植民地支配の歴史を直視し学んでいかなくてはいけないのだと痛感するフィールドワークであった。