<前号記事 ポルトガル革命50周年(前編)>
[4] 米欧帝国主義による謀略と反革命干渉
(1)キッシンジャーと米CIA主導で反革命介入
米欧帝国主義が4月革命を恐れたのは、ポルトガル植民地を防波堤とする米欧列強のアフリカ支配(集団的植民地主義)の崩壊だけではない。隣国スペインへの、さらにフランス、イタリアへの波及を何よりも恐れた。フランス、イタリアでは、強力な共産党がすでに帝国主義支配層を恐怖に陥れていた。スペインのフランコ・ファシズム独裁も震え上がった。米欧列強は現地ポルトガルのサラザール体制の旧支配層と4月革命圧殺で一斉に動き始めた。
反革命介入を主導したのは米帝国主義である。ニクソン政権のキッシンジャーは、ポルトガルがヨーロッパのキューバになることを恐れ、軍隊運動(MFA)がスペインの反フランコ軍に感染することを恐れた。彼は、チリ式の解決策やキューバに課されたような経済封鎖や軍事介入さえ考えた。米政府は、中東、ラ米カリブやアフリカで謀略、クーデターや政権転覆、軍事介入で血にまみれたCIAを中心に据え、反革命の謀略計画に着手した。
4月革命圧殺の密命を帯びたのが米国大使となったカールッチだ。彼は、コンゴでCIAの指示でルムンバ暗殺に関与した「冷戦戦士」と呼ばれた人物だ。後にポルトガルでの「功績」によりCIA副長官になる。彼は、複数の反革命工作を同時並行で進めた。第1に、若手将校・兵士からなる軍隊運動(MFA)内部の諸派閥の対立と分断だ。第2は、不安定な臨時政府の分裂と分断である。社会党や保守政党に食い込み、共産党の孤立化、閣内不一致を先導し、臨時政府の崩壊を追求した。第3は、国内のファシズム勢力、右翼勢力、社民勢力、及びテロ集団とそれに連なるカトリック教会の一部を巻き込んだ反革命軍事クーデターを計画した。第4は、これらが成功しない場合には、フランコのスペイン軍、さらにNATO軍をポルトガルに侵攻させ、革命を圧殺することまで検討した。現に、75年と76年には米・NATO軍はポルトガル沿岸で大規模演習で恐怖を与えた。
(2)度重なるクーデター ~社会党と米政府・CIAの「戦略的共犯関係」
米欧列強と旧支配層からなる反革命派は波状的なクーデターを繰り返した。1回目は1975年3月11日だ。MFAとの対立から大統領を辞任していた軍右派のスピノラ将軍を立てて反革命軍事クーデターに打って出た。だが、それは敗北に終わり、逆に革命過程を加速させる。労働者・人民の革命の勢いがまだ優勢だったのだ。MFAは制度化され、革命評議会が創設され、銀行と保険の国有化が決定された。
2回目は1975年7月である。導火線は同年4月の制憲議会選挙で社会党(PS)が第1党になったことから始まった。党首マリオ・ソアレスは、独占資本の清算と変革プロセスに反対し、反革命の主導権を握った。ソアレスの共産主義への恐怖は、ファシズム復活の恐怖よりもずっと強かった。以後、ソアレスとカールッチはほぼ毎日会い、謀議を重ね、社会党と米政府・CIAは「戦略的共犯関係」を築いた。それだけではない。ヨーロッパの主要な社会民主主義政党がリスボンに集結し、共産主義の脅威への対応を協議した。西ドイツのブラント、フランスのミッテラン、イギリスのキャラハンがリスボンに派遣された。――過去の歴史が示すように、革命に際して社会民主主義は常に公然たる反革命として立ち現れるのである。
カールッチの目標は、革命過程におけるMFA左派の主導権を奪い、共産党(PCP)の影響力を削ぎ、革命過程を失速させ、穏健化と反革命へ転換すること、保守・反動勢力からなる反革命派に新しい権力を形成させることであった。彼はまず共産党追放から着手した。1975年7月、共産党を追放するために臨時政府からPSと社会民主党(PSD)を離脱させ、連立臨時政府を崩壊させた。カールッチは同時に、ファシスト残党や極右勢力を使ってPCPの事務所や党員にテロを組織し、公職や管理職、共産党の文化人に対する「赤狩り」を開始した。
(3)1975年「11・25クーデター」 ~MFA左派・共産党政府の崩壊
3回目は1975年11月25日である。これがMFA左派・共産党ブロックと米CIA率いる米欧列強・軍内保守反動派・旧体制・社会党ブロックとの対決の頂点となった。
カールッチとソアレスは、架空の「共産主義クーデター」をでっち上げ、これを口実にクーデター鎮圧計画を立て、メディアを通じてヨーロッパ中に「共産主義クーデターの恐怖」を煽った。共産主義者がリスボンを掌握すれば、社会党と保守反動派は北部に拠点を作り、米CIAと英MI6による反共市民軍への武器支援、共産党拠点への空爆、財政支援、後方支援などの秘密作戦を行うというものだ。これをヨーロッパ中の社会民主主義政党が支持し、「キャラハン・プラン」と呼ばれた。現に、右派スピノラ将軍派の空挺部隊、反共市民軍への武器配布など、一部が実行された。臨時政府やMFAや軍は混乱を極める。
そしてついに1975年11月25日、この大混乱の中で、MFAは分裂し、解散した。こうして革命の二つの原動力のうち、MFA左派が主導する「革命の軍事的要素」が失われた。その後は、もう一つの原動力であるPCPをはじめ左翼勢力が主導する民衆運動が、社会民主主義諸派が革命を裏切る中でも、革命を推進し続けることになる。アルバロ・クニャール共産党書記長(当時)は、「このクーデターは深刻な後退ではあったが、民主主義体制そのものには致命的ではない」と述べ、決意を新たに労働者・人民を奮起させ、翌年4月の共和国憲法制定に全力を挙げた。
[5] 4月革命の偉大な成果=共和国憲法
(1)1976年4月2日、執拗な妨害を排して憲法制定
4月革命の成果と獲得物を体現したものが共和国憲法である。4月革命2年目の1976年4月2日に制憲議会によって承認され、共和国大統領によって公布された。
軍と政財界の保守反動派も、社会民主主義派も、4月革命の成果・到達点を盛り込んだこの共和国憲法の制定を阻止することはできなかった。この憲法は、先進的な民主主義体制の確立を確定し、ファシズム・ポルトガルから民主主義ポルトガルへ、その地位を決定的に変容させたのである。まさに、「改良は革命的闘争の副産物」(レーニン)となった。
この資本主義世界で前例のない進歩的共和国憲法は、前年の11・25クーデターでMFA解散の後、革命の軍事的原動力を欠いた共産党を中心とする左翼勢力が渾身の力を投入して獲得したものだ。憲法制定後、保守反動・社会民主主義ブロックと共産党・左翼勢力ブロックとの闘いは、憲法の弱体化・空洞化と維持・復活をめぐる闘いとなって展開されていく。
(2)憲法の先進民主主義的内容
共和国憲法には、革命過程における偉大な民主主義の成果、経済的、社会的、文化的権利が盛り込まれた。
――まずは政治的・社会的権利だ。労働、社会保障、健康、住宅、環境、生活の質、教育、職場、家庭、社会における男女共同の承認、児童・青少年、障がい者、高齢者の権利の促進という広範な基本的権利が明記された。どれもサラザールのファシスト独裁下ではなかった民主主義制度であった。
――次に、国の経済的・社会的発展に関して憲法の選択は非常に明確である。憲法の原則には集団的利益に従った天然資源と生産手段の公的所有、民主的計画、経済・社会的措置の決定への労働者代表組織の参加が含まれている。独占資本や地主制を排除し、生産手段の公的部門、私的部門、協同組合部門、社会的部門が共存する「混合経済」に基づく経済組織の原則、さらに「社会主義への道を歩む民主主義」が盛り込まれている。
――さらに、外交関係においても、国家の独立、民族の自決権、国家間の平等、国際紛争の平和的解決、他国の内政の不干渉、全ての民族との協力という原則が定められた。共和国憲法は、帝国主義、植民地主義、その他あらゆる形態の侵略、支配、搾取の廃止、一般的・同時的・強制的な軍縮、軍事ブロックの解体、集団安全保障体制を謳った。
○500年の植民地支配と半世紀のファシズム支配に終止符
○米帝・西欧列強と独占資本の謀略と反革命干渉に抗して
○若手将校・兵士の軍隊運動と民衆蜂起が結合