ディエンビエンフーの勝利70年を祝う
民族解放の新しい時代を切り開く

 5月7日、ベトナムは、全人民がディエンビエンフー戦勝70周年を祝った。党と政府、国会、ディエンビエン省、ベトナム祖国戦線が式典を盛大に開催し、パレードには1万2000人以上が参加した。
 われわれの古い世代にとって、とくにベトナム反戦を闘った者にとって、1975年4月30日のサイゴン(現在のホー・チ・ミン市)解放=南ベトナム解放の記憶は今なお鮮明である。しかし、その土台、出発点は、さらに21年前の1954年5月7日におけるディエンビエンフー勝利であった。        

   (石河)

1.ディエンビエンフー勝利の世界史的意義

植民地人民、フランス帝国主義を軍事的に殲滅
 アジアの小国、植民地で、貧しい農民を主体とした人民が、米の全面支援を受けたフランス軍を完璧に打ち破った。
 ベトナム人民軍は1944年12月に結成されたが、その参加者は「初歩的な武器を持った34人の兵士」であった。 確かに政治的、組織的にはベトナムの革命運動は、都市と地方の両方ですでに一大勢力であった。大戦が終わるまでに、ベトミン(ベトナム独立同盟)は50万人以上(総人口2500万人未満のうち)に成長していた。
 8月15日に日本が降伏したときには、人民の武装が急速に進み、革命軍は万全の準備を整えていた。「8月革命」が開始された。総反乱の命令が出され、各地の人民組織、ゲリラが蜂起した。8月14日から18日にかけて、27州のほぼすべての村、地区、州の行政センターが占拠され、その多くでほぼ即座に革命権力が樹立された。ハノイ、フエ、サイゴンの3つの主要都市の政権は数日間持ちこたえたが、ベトミンの勝利は迅速かつ無血であった。ベトナムの長い歴史の中で初めて、国全体の統治が人民の手に委ねられた。9月2日、ホー・チ・ミンはハノイのバーディン広場で50万人以上の熱狂的な群衆に向けて独立宣言を読み上げた。
 しかし9月下旬、大戦前の宗主国フランス帝国主義がベトナムに戻り、再征服戦争を開始した。米帝の全面支援を受けたフランスと、ベトミンとの兵力差は歴然だった。ベトミンは地方に後退し、ゲリラ闘争に転換した。ここからディエンビエンフーの勝利まで、9年間におよぶ長い戦いとなったが、士気に勝るベトミン軍は次第に互角あるいは優勢になっていく。
 フランス軍は巻き返しを図るべく、ディエンビエンフーに精鋭を結集し、「ベトミン軍の主力を破壊するための罠」を仕掛けた。「ハリネズミ作戦」と呼ばれ、49の塹壕を持った「無敵の要塞」に21個大隊1万6200人を配置した。2つの飛行場を擁し、戦車をはじめ最新鋭の兵器を備えていた。
 一方、ベトナム労働党(現ベトナム共産党)は、1953年12月に「速攻、速勝」戦略を採用した。だがヴォー・グエン・ザップ将軍はフランス軍の体制を見て、「着実な攻撃、着実な前進」に転換した。そしてベトナム人民軍は55日間にわたる激しい戦闘の末、フランス軍を完全に殲滅した。ベトナム人民軍の犠牲者は4020人、負傷者9691人、行方不明者792人であった。

アルジェリアやキューバなど、全世界の民族解放闘争勝利に巨大な貢献
 ディエンビエンフーの戦いは、1962年にフランス軍に勝利したアルジェリア独立戦争、1988年に南アフリカ軍に勝利したキューバ・アンゴラ軍のクイト・クアナヴァレの戦いとともに、植民地の人民の軍隊が帝国主義国の巨大な正規軍を直接打ち破ったという意味で世界史的な意義を持つものであった。
 フィデル・カストロは、「現代史上最大の出来事の一つ」だと言い、「ディエンビエンフーとヒロン(1961年、米に支援された亡命キューバ人反革命軍の敗北)は、帝国主義の墓碑銘だ」と述べた。ロシアの学者は「ベトナムのスターリングラード」と呼んだ。
 アルジェリア民族解放戦線の中央委員は、この勝利がいかに自分たちを勇気づけたかを語っている。「ディエンビエンフーの勝利は、植民地主義の力を完全に打ち負かすことができること、民族が自己解放の決意を固めればその目標を達成できることを証明し、植民地主義に沈んでいた他の民族を目覚めさせた」。「人々は行動スローガンとして『ディエンビエンフー』を使い、自分たちも勝てると確信した」。「ディエンビエンフーは植民地支配の歴史における転換点だ。歴史はディエンビエンフー以前と以降の2つの時期に分かれる」と。
 ディエンビエンフー勝利は、第2次界大戦後に、それまでの長きにわたる旧植民地体制を崩壊させ、民族解放の新しい時代を開いた画期的な出来事であり、第1次世界大戦とロシア革命に触発された植民地解放闘争の高揚に次ぐ、新しい時代を切り開いた。

2.勝利をもたらしたもの

レーニンが築いた民族・植民地問題の理論と思想
 レーニンと共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、コミンテルン)は植民地に真に革命的な新しい時代の基礎を築いた。1930年2月にはインドシナ共産党(ベトナム共産党、カンボジア共産党、ラオス人民革命党の前身)が結成された。
 ホー・チ・ミンは、レーニンの「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案」(共産主義インターナショナル第2回大会のための草案)を「奇跡の手引書」と呼んだ。「なんと感動的で、なんと興奮したか」と語り、「これこそがわれわれに必要なことであり、これこそがわれわれを解放する方法だ」と断言した。

2人の傑出した指導者~ホー・チ・ミンとヴォー・グエン・ザップ

 ホー・チ・ミンは、1919年2月、フランス社会党に入党し、翌年、その分裂によって誕生したフランス共産党創設者の一人となった。そして1930年、香港でインドシナ共産党を結成した。インドシナ共産党は、結成から1年もたたない内にベトナム国内で重要な前進を成し遂げた。ベトナム中部のゲアンとハティンの2つの省にゲティン・ソビエトを誕生させ、数ヶ月にわたって持ちこたえたのだ。同ソビエトの敗北後、ホー・チ・ミンは宗主国フランスによる欠席裁判で処刑を宣告された。
 ホー・チ・ミンは、その後、モスクワのレーニン国際学校で学び、1938年からは中国共産党の八路軍少佐として戦闘に従事した。このような経験を経て、1941年1月に帰国し、ベトナム革命の直接指導を開始した。5月にはベトミンを結成した。
 ホー・チ・ミンは、この後中国にいたが、1944年9月にベトナムに戻り、その12月にベトナム解放宣伝軍(ベトナム人民軍の前身)を結成した。彼は、終生、確固たる共産主義者であり、かつベトナム民族解放の最高の指導者であった。
 ベトナム人民軍の勝利にはヴォー・グエン・ザップのリーダーシップが不可欠であった。彼は、1927年、フエ国民学校で大規模なストライキを指導し退学となった。その後ホー・チ・ミンと出会ってインドシナ共産党に入り、ベトミンで活動を始めた。彼は、33歳という若さでベトナム人民軍の指揮を執った。そして「8月革命」を勝利に導き、樹立されたベトナム民主共和国の最高司令官に就任した。以後ディエンビエンフーからサイゴン解放まですべてを指揮した。戦略的兵站家でもあり、「ホー・チ・ミン・ルート」(ベトナム北部からラオス、カンボジア、ベトナム南部を貫く約2万キロメートルに及ぶ戦略的軍事補給路)の設計者であった。彼は、軍事学校で訓練を受けたこともなく、軍隊での階級もないのに、1948年、大将となり、ベトナム人民軍の初代将軍となった。ホー・チ・ミンは、「大佐に勝てば大佐、少将に勝てば少将、大将に勝てば大将の称号が与えられる」と述べた。彼の軍事思想は「人民戦争」であった。彼は言った。「私たちは人民戦争を行っている。それは、あらゆる男性、あらゆる女性、あらゆる部隊が動員される全人民の総力戦である。アメリカ製の高度な武器や電子機器などは役に立たない。アメリカ人は自分たちの力の限界を誤算している。戦争には人間と武器という2つの要素しかない。しかし、最終的にはやはり人が決め手になる。人間!人間!」。「敵が強ければ避ける。敵が弱ければ攻撃する。ゲリラのあるところには必ず前線があり、たとえ敵陣の後ろであっても前線がある。彼らの高度な装備に対して、私たちは無限の英雄的行為を行う」

共産党と軍の高い規律、全人民の団結と愛国心
 共産党と軍隊の高い士気、最高度の規律が、確固たる理論と思想、傑出したリーダーシップの不動の土台を構成した。
 フランスの植民地となった最初の数十年間、ベトナムの抵抗勢力は分裂し、バラバラであった。それは英雄的で、時には壮観なものではあったものの、人民大衆を団結させて巻き込むことができず、したがって、植民地当局は比較的容易に鎮圧することができた。
 偉大な勝利を闘い取ったのは、全人民の意思、決意、団結、そして愛国心の強さであった。そしてそれらがベトミンという形で組織されていた。ホー・チ・ミンは「団結、団結、大団結、成功、成功、大成功」と讃えた。
 軍事的勝利を下支えした最も重要な要因は後方支援を提供するための人民の動員であった。何万人もが「人民の運搬人」「人民ポーター」となった。フランス軍には通行不可能と思われた地形を通って、20万人の農民が800キロメートルもの道を切り開き、最前線まで物資を運び込んだ。

ソ連・中国など社会主義諸国による国際的支援
 社会主義ソ連と中国の支援は絶大であった。中国の軍事顧問団はベトナム軍司令部に組み込まれていた。毛沢東は代表団のメンバーに対し、中国革命に奉仕するのと同じように、ベトナム革命を公平かつ純粋に支援するよう求めた。中国は、大量の武器やその他の物資とともに後方基地を提供し、民族解放闘争で得た貴重な軍事経験(朝鮮戦争を含め)を提供した。ソ連は、地対空ミサイルや戦闘機などの最新兵器のほか、医療品、戦車、ヘリコプター、数千人の軍隊などの形で決定的な支援を提供した。ソ連の軍事学校や士官学校も数千人のベトナム兵士に訓練を提供した。
 ホー・チ・ミンは次のように述べている。「わが党と人民のすべての成果は、ソ連、人民中国、その他の社会主義諸国、国際共産主義運動、労働運動、民族解放運動、平和の友愛的支援から切り離せないものである」。「我々があらゆる困難を乗り越え、労働者階級と人民を現在の輝かしい勝利に導くことができたのは、党が我が国の革命運動を世界の労働者階級と抑圧された人民の革命運動と連携させてきたからである」

3.アメリカ帝国主義は、仏帝国主義に荷担し、 後に自ら侵略の正面に

米国は、「8月革命」後、ベトナムが社会主義体制に入ることを必死で阻止しようとした。いわゆる「ドミノ理論」(「ある一国が共産主義化すればドミノ倒しのように隣接する国々も共産主義化する」という冷戦期の米帝国主義者の主張)である。米国は、フランスに武器を供給し全面的に支援した。フランスはこれによって、ベトナム全土を制圧し植民地としてふたたび支配した。
 米帝国主義は、フランスがディエンビエンフーで壊滅的な敗北を被って以降、直接戦争の前面に立った。ベトナム人民は、今度は米国とさらに21年間戦い続けることになった。1968年のピーク時には、米軍50万人以上に加えて、南ベトナム傀儡軍100万人以上、韓国、オーストラリア、マレーシア、ニュージーランドからの数千人が参戦した。日本も全面的に荷担し、米軍への基地提供、兵器の修理、物資の補給など侵略戦争の共犯者となった。

4.今再び、反植民地闘争、民族解放闘争が 新たな時代を迎えている

パレスチナなど再び世界で燃え上がる反帝・民族解放の炎
 現在、米帝主導の西側帝国主義の新植民地支配とこれに真正面から闘いを挑む反帝・反植民地解放闘争の世界的中心点はガザ・パレスチナである。イスラエルとアメリカ帝国主義はガザ地区に残忍この上ないジェノサイド戦争を仕掛けている。しかしハマスを中心とするパレスチナ抵抗勢力は大胆で柔軟な不屈の反撃を続け、ガザ住民とパレスチナ人民は士気を保ちながら、結束と団結を維持している。このパレスチナ人民の英雄的闘いの周りに、社会主義中国とグローバル・サウス、全世界の学生運動、労働者・人民の連帯運動が結集している。
 それだけではない。まさにフランス帝国主義の植民地支配に苦しめられてきたニジェールやブルキナファソ、マリなど西アフリカ地域で、また太平洋のニューカレドニアで、反仏・反植民地闘争が燃え上がっている。

米帝一極支配の没落と新植民地体制崩壊の新しい時代
 今日の世界の力関係は、ディエンビエンフーの勝利の時代と比べてはるかに有利に変化している。米を中心とする西側帝国主義は凶暴化し、極限まで退廃しているが、それは衰退の表れである。パレスチナでの大虐殺戦争は、「人権」や「民主主義」を掲げる米と西側帝国主義の偽善を暴露し、世界中でパレスチナ人民への連帯と共感を拡大している。ウクライナ戦争における米主導の西側帝国主義による対ロシア「代理戦争」と対ロシア制裁発動の強要は、西側でのインフレ・物価高騰と人民生活の悪化を加速し、グローバル・サウスの反発を招いている。
 パレスチナ和平でも、ウクライナ和平でも、戦争拡大の張本人である米と西側帝国主義にその仲介役の資格はない。代わって、パレスチナ人民を支援する中国をはじめとする社会主義とグローバルサウスが世界史の表舞台に登場している。イスラエルと米帝国主義の国際的孤立とNATOの混乱はますます歴然となっている。米帝主導の西側帝国主義がその軍事力と途上国収奪を武器に変え、国際政治と世界経済をやりたい放題で支配してきた時代は終わりの始まりを迎えている。
 あらためてディエンビエンフー勝利の偉大さを思い起こし、ベトナム・中国をはじめとする社会主義諸国およびグローバルサウスの人民と連帯することの重要性を喚起しよう。


  

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