ポルトガル共産党の4月革命記念集会(2024年4月7日)
[1] はじめに――4月革命50周年を数十万の民衆が全土で祝う
今年はポルトガル4月革命50周年である。首都リスボンで数十万の労働者・人民大衆が街頭に進出した。ファシスト独裁政権打倒後最大規模の一大デモンストレーションとなった。共産党、左翼ブロック、社会党からなる「4月25日民衆記念行事推進委員会」が主催した。「4月革命の精神は生きている」と叫び、50年前と同様にカーネーションが街中にあふれた。当時、一人の女性が解放兵士に歓迎のカーネーションを手渡すと、兵士らはそれを銃口に挿して歓声を挙げた。同じ光景が瞬く間に首都リスボン中に広がり、ポルトガル革命は「カーネーション革命」と呼ばれるようになった。それ以来この花は、軍隊蜂起と民衆蜂起の結合の象徴、ポルトガルの500年に及ぶ植民地支配の終結と50年近いファシスト独裁政権の打倒を成し遂げた4月革命の象徴となった。
われわれのシニア世代は、1960年代末から70年代前半の学生・青年時代に、戦後最大の経済恐慌とドル危機、ベトナム戦争での米帝の敗北と解放闘争の劇的勝利、ソ連が主導する平和攻勢、チリ革命の成功と敗北、ニカラグアなど中米革命、仏伊のユーロコミュニズムとその没落、アフリカの植民地解放、国内では学生運動から70年安保闘争・沖縄返還闘争とスト権ストへ、資本主義の全般的危機の爆発を体験・目撃した同時代人であった。ポルトガル革命もその一つであった。しかし、われわれの4月革命の知識は断片的でしかない。
この革命で決定的に重要な役割を果たしたのがポルトガル共産党(PCP)だ。同党は革命記念日に先立つ今年4月7日、アルマダで記念集会を開催した。4月革命の様々な側面、その過程、その成果と功績、反革命の執拗な巻き返し、現在と未来にとっての4月革命の意義などが提起された。以下、この集会の内容と他の左翼論説の内容を圧縮し2回に分け紹介する。
[2] 4月革命とは何か?
――歴史的勝利と革命の諸段階
反独占・反地主・反帝国主義の反ファシズム革命
ポルトガル革命は、何よりも反ファシズム・民主主義革命であった。PCPは、ポルトガルの社会階級構造の他国にない特殊性を、こう規定した。
――第1に、ファシスト・サラザールの支配=新国家体制「エスタド・ノヴォ」を、「外国帝国主義と結びついた独占資本と地主のテロ独裁」と分析し、来る反ファシズム革命を「反独占・反地主・反帝国主義革命」と規定し、これを社会主義を目指す闘いの不可欠の一段階とみなした。
――第2に、この国の異常な後進性(資本主義ヨーロッパで最も後進的)が、国家独占資本主義体制における高度な独占的集中と共存していたことである。7つの大きな金融独占グループ(メロ、シャンパリモー、エスピリト・サントなど)が、この国の経済的・政治的生活を支配していた。だからファシズムの打倒には、その支持基盤である独占資本と大土地所有制の破壊が必要不可欠であった。7大グループの銀行と経済の主要部門の国有化、労働者統制、農地改革が進んだのは必然的であった。
――第3に、この国が、最も古い植民地帝国でありながら、米欧の帝国主義と多国籍企業に支配された従属国であったことである。現に反革命は米欧帝国主義が主導した。PCPは、革命過程で「最も進まなかったのは、反帝国主義闘争、帝国主義への従属と服従から解放する闘争であった」と総括している。われわれは、PCPがなぜ革命の「民族的・愛国的」側面を強調するか理解できなかったが、今回のPCP記念集会で語られた米欧帝国主義による猛烈な反革命介入の事実を知り、初めて理解できた。帝国主義の盟主アメリカは、途上国はもちろん、先進国でさえ、軍隊を巻き込みNATOを揺るがし、共産党が決定的な役割を果たす人民革命を許さないのである。米帝国主義が社会主義と人類の進歩に対する主敵であることを再認識する必要がある。
*注:レーニンは『帝国主義論』第6章で、広大な植民地を領有しながら、当時のポルトガルを帝国主義国家ではなく、巨大なイギリス帝国主義の金融的・外交的な「従属国」との規定を与えた。この地位はサラザール体制の下でもほとんど変わらなかったのだ。
下級将校・兵士のクーデターが最初の一撃
4月革命は、先進国革命では異例の下級将校と兵士の反乱から始まった。1973年9月9日、ギニア・ビサウに派遣された青年将校と兵士たちがポルトガルに集まり、「軍隊運動(MFA)」を結成した。彼らの多くは労働者階級の出身であった。1974年3月、MFAはマルクス主義者の軍人エルネスト・メロ・アントゥネスが起草した「民主主義、開発、脱植民地化」宣言を承認した。1974年4月25日0時過ぎ、ラジオから流れるポピュラーソング『グランデ』を合図に兵士が一斉に蜂起、カルヴァーリョ大尉に指揮されたMFAが全軍を平和的に掌握し、その数時間後に民衆蜂起が続き、軍隊蜂起と民衆蜂起が一体となって瞬く間に平和的な事実上の無血革命(犠牲者は秘密警察に射殺された4人だけ)へと発展した。サラザール(1933~68年)とその後継者カエターノ(1968~74年)の悪名高い刑務所で何年も苦しんできた政治囚は、大喜びの家族の腕の中に釈放された。秘密警察本部、ラジオ局、政府の建物は反乱軍兵士の手に落ちた。若い将校と兵士たちがヨーロッパ最古で最長の48年間続いたファシスト独裁政権をわずか24時間で打倒したのである。
怒濤の民衆蜂起が続く
ファシズムの圧政と搾取に堪えに堪えてきた民衆の怒りと喜びが爆発し、民衆蜂起となって通りに押し寄せた。人々は、戦車によじ登り、ライフルの銃身に赤いカーネーションを挿した。人々は、住んでいる場所や働いている場所で会合し、議論し、兵士たちと友好を深めた。人々は、あらゆる場所であらゆる方法で組織化されるにつれて、日々自信を深めていった。
労働者・人民は驚くべき創造性を発揮した。次々と労働組合が組織され、人々は住宅を占拠し、住宅組合を作った。革命の最初の15日間で、何千人もの貧しい人々が、新しい公営住宅2500戸を占拠した。最初の1週間で多くの職場ストライキが発生し、旧ファシスト政権関係者1万2000人以上が粛清または停職処分を受けた。多国籍企業タイメックスやリスナーブ造船所でも、即座に職場占拠が起こった。数千の「労働者委員会」と100を超える人民権力の萌芽である「住民委員会」が都市や町に設立された。労働者たちは互いに結びついた。下からの参加型民主主義が広がった。人々は自らを統治する方法を学んだ。人々は保健センター、コミュニティ組織、文化センターを設立した。
労働者は、75年3月のクーデター未遂事件に怒りを爆発させ、大規模な国有化を要求した。銀行労働者は支店を占拠し、ポルトガル中の銀行の国有化を要求した。MFAの革命評議会は、翌日、その決定を承認した。次は保険会社だった。そして1975年4月15日、第4次臨時政府は、石油、電力、ガス、タバコ、醸造所、製鉄所、セメントなど数十の企業を国有化した。文字通りの民衆蜂起、人民革命だ。ある東独の特派員は、ジョン・リードが『世界を震撼させた10日間』で描写した1917年のボリシェビキ革命のようだと表現した。
1975年、一般兵士たちが将校たちとの間の不平等の是正を要求し始め、一般兵組織「SUV」(団結した兵士たちは勝利する)」を結成し、それがさらに力関係を大きく変化させた。同年9月25日、「SUV」はリスボンの住民委員会と労働者委員会を支持する10万人規模のデモを行なった。同年秋、農村プロレタリアートが争いに加わった。大規模なラティフンディオ(私的所有の広大な土地)のほとんどを労働者が占拠した。
米・NATO諸国の支配層と軍隊の恐怖は頂点に達した。隣国スペインのフランコ独裁政権も、共産党が労働運動・農民運動を率いるフランスやイタリアの支配層も狼狽した。イタリアでは、1000人以上の兵士がポルトガルの労働者・兵士を支援するデモを行なった。
普通選挙での社会党勝利が反革命派巻き返しの第一歩
1974年4月から76年4月までの全期間を通じて、6つの臨時政府が形成されたが、安定した政府は存在しなかった。反ファッショ軍隊運動=「MFA」が大統領と首相を任命したが、いずれも軍のメンバーであった。欧米の帝国主義者たちが恐れたのは、共産党が常に代表を送っていたことである。
1975年4月25日の旧政権打倒1周年記念日に、ポルトガル初の普通選挙に基づく選挙が行われた。長いファシズム独裁下で自由と民主主義を渇望した民衆は議会制民主主義に殺到し、有権者の92%近くが投票した。しかし、ファシズム下の過酷な闘争の経験もなく前年に結成されたばかりの社会党が37.9%を取り、革命の立役者である共産党は12・5%にとどまった。社会党は欺瞞的な「人間の顔をした社会主
義」を掲げ、宣伝カーは「インターナショナル」を流すという左傾化した人民に迎合する巧みな選挙戦術を展開し、保守反動や西側メディアは大規模な反共プロパガンダを垂れ流し、これが共産党の得票率に影響を与えた。
CIAが主導する欧米列強と保守反動は、この社会党勝利を千載一遇のチャンスと捉え、社会党を前面に立てた反革命的な局面転換を図る。選挙から7ヶ月後の11月25日に反革命クーデターを強行し、MFA左派と共産党を排除した社会党中心の新たな権力を形成し、革命の波は後退する。4月革命から19ヶ月目であった。革命の勢いは、翌76年4月の憲法制定まで約2年間続く。
[3] 反植民地革命
アフリカ民族解放闘争の勝利500年の植民地支配に終止符
植民地戦争の重荷とサラザール独裁体制の崩壊
4月革命は、反ファシズム革命であるだけではなく、反植民地革命でもあった。アフリカの広大な植民地維持のための長きにわたる植民地戦争で諸矛盾が沸騰点に達していた。
一方で、植民地駐留軍の若い下級将校や兵士は、正義のない戦争に動員され無駄死にすることへの不満や反発が高まっていた。青年男性人口の90%が動員された。植民地戦争はアフリカの現地住民10万人を殺戮しただけではない。徴兵制の下で従軍したポルトガル軍兵士の死者は1万人、負傷して帰国した兵士は2万人に及んだ。ポルトガル軍は、18世紀以来のどの時期よりも多くの兵士を失い、泥沼の戦争にはまり込んだ。この諸矛盾がMFA創設につながった。
他方で、植民地の戦争・統治の戦費、軍事費が国家財政の4~5割を占め、人民関連予算を圧迫した。植民地領有による資源・市場の略奪で超過利潤を得たのは外国資本と7大金融独占グループだけで、欧州最貧国の労働者・人民は、さらに困窮した。数百年続いた植民地領有そのものが深刻な重荷となり、ファシズム国家は未曾有の危機に陥った。
一国植民地領有から西側列強の「集団的植民地主義」へ
4月革命はサラザール独裁体制を崩壊させただけではない。植民地戦争の終結と駐留軍の本国撤退、植民地諸国の独立の承認、徴兵制廃止を決定した。かつてロシアでツァーリ専制支配を打倒したボリシェヴィキ革命が第一次世界大戦を終結させたように、革命が平和をもたらしたのである。相違点は、ロシア革命が帝国主義間戦争の終結であったのに対し、4月革命は先進国による対途上国植民地戦争の終結であったことだ。
確かに、アンゴラ、モザンビーク、カーボベルデの独立交渉は革命後の1975年に正式に妥結した。しかし、ポルトガルの独裁政権が崩壊したからアフリカの民族解放戦争が前進したのではない。逆である。膨大な犠牲を払った民族解放戦争がファシスト独裁を崩壊させたのだ。
アフリカでも、1950年代後半から60年代にかけて「独立の嵐」が巻き起こり、フランス領ギニアが独立し(58年10月)、ベルギー領コンゴが独立した(60年6月)。しかし、サラザールはこれを拒否し、1961年から新たな植民地戦争を開始した。だがそれは、もはやポルトガル一国の植民地領有のためではなかった。ポルトガル植民地への米欧資本の投資制限を解除することで、米欧帝国主義の「集団的植民地」の共同領有の戦争に変質していく。アメリカ、ドイツ連邦共和国、その他のNATO諸国やEC諸国は、豊富な物資供給と直接投資により、ポルトガルの植民地領有とファシズムを支持し、さらに自国の帝国主義的権益を確保した。南アフリカ、ポルトガル、南ローデシアのファシストと人種差別主義者が結託したいわゆる「白ブロック」は、ギニア・ビサウ、アンゴラ、モザンビークをアフリカ独立国家に対する「防波堤」として機能させようと狙っていた。それは、アンゴラのダイヤモンドや石油鉱床の開発などの具体的な経済的利益と結びつき、1961年以降にポルトガルが植民地戦争を本格化したことでさらに強まった。
社会主義国の支援による民族解放戦争の前進
ポルトガルと米欧帝国主義の「集団的植民地主義」にアフリカ人民は起ち上がる。アミルカル・カブラル率いるギニアビサウ・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)、モザンビーク解放戦線(FRELIMO)、アンゴラ解放人民運動(MPLA)は、勇敢な激しいゲリラ戦争を展開した。ソ連、東ドイツ、キューバなど社会主義諸国の政治的・軍事的支援が全面的にこれを支えた。その結果、1974年の4月革命時点ですでに、73年に独立を宣言したギニア・ビサウ共和国は国際的に承認され、アンゴラの半分以上は解放され、モザンビークのほぼ3分の1が解放されるところまで前進していたのである。
ポルトガル一国の植民地領有から米欧列強の「集団的植民地主義」に変容したアフリカの植民地支配の危機は、米欧列強総体の植民地支配の崩壊の危機につながる。その根幹をなすポルトガルファシズムの革命的崩壊は、アフリカだけではなく、米欧帝国主義によるラ米カリブや中東での石油・鉱物資源に対するグローバルな植民地支配を根底から揺さぶり始めた。米欧列強にとって4月革命の早期圧殺が至上命題となり、一斉に反革命干渉に乗り出した。
(K/W)
( ポルトガル革命「中編」 ポルトガル革命「後編」 に続く )
○500年の植民地支配と半世紀のファシズム支配に終止符
○米帝・西欧列強と独占資本の謀略と反革命干渉に抗して
○若手将校・兵士の軍隊運動と民衆蜂起が結合