非人間性、非人道性の深さに怒りを抑えることはできない。同時に、なぜイスラエルはそこまで残虐になるのか、なれるのか、と問わずにおれない。その秘密は一体何なのか、それに迫ろうと試みたのがこの小論である。結論を一言で言えば、シオニズムと米・西側帝国主義の一体化、これが秘密の核心である。
10月7日のハマスのアル・アクサ洪水作戦の歴史的反撃以来、世界のコミュニストや反帝国主義運動の理論家たちが次々と論説を発表している。政治的シオニズムの起源と世界情勢の変化の中での残虐的進化、欧米帝国主義列強の中東分断支配とシオニズム、ナチスの台頭とシオニズムの関係、第二次大戦後の米帝国主義の覇権と石油支配とシオニズム・イスラエルとの結合関係、等々、重要な内容が豊富に紹介されている。
とりわけ興味深いのは、ワエル・ムスタファ・アル・ハーシュの論説「パレスチナ占領は帝国主義プロジェクトの核心である」である。彼は、共産主義政党であるパレスチナ人民党の学生部門「進歩的学生連合ブロック」の書記であり、若き理論家である。もう一つは、ハイマン・ルーマーの1971年の著書『シオニズム:世界政治におけるその役割』である。彼は、米国共産党の出版物『Jewish Affairs(ユダヤ問題)』の編集者であり、最近、機関紙『ピープルズ・ワールド』が改めて主要部分を掲載した。ただし、本稿には、われわれ自身の分析も含まれている。
パレスチナ連帯運動を進めるにあたって、われわれが注意すべきは、シオニズムとユダヤ人とユダヤ教を区別すべきだということだ。ハマスやパレスチナ抵抗勢力が敵に据えているのは、ユダヤ人でもユダヤ教でもない。シオニズムであり、シオニスト国家である。(渉)
「政治的シオニズム」は人種的帝国主義的植民地主義のイデオロギー
「政治的シオニズム」は、19世紀末に、近代帝国主義の台頭と、人種差別的抑圧のイデオロギー「反ユダヤ主義」の新たな高揚への対応として出現した。新しい反ユダヤ主義は、かつてのような宗教的偏見に根ざしたものではなく、本質的に世俗的で人種差別的なものであった。歴史家のS・M・ダブナウはそれを次のように表現した。「いったん解放されたユダヤ人が社会的、産業的活動のあらゆる分野で急速に進歩したことは、ヘブライ人(ユダヤ人)が社会的に劣っているという考えにまだ固執していたキリスト教社会の一部の人々に嫉妬に満ちた恐怖を呼び起こした」と。このような動きに対して、「政治的シオニズム」の創始者とされるテオドル・ヘルツルは、ユダヤ人と非ユダヤ人との間には埋めがたい溝があり、共に暮らすことは不可能であり、ユダヤ人は独自の国家を建設しなければならない、という強い信念を持つに到った。そして1897年に「世界シオニスト機構」という組織を結成し本格的に活動を開始した。それを財政的に援助したのがユダヤ財閥のロスチャイルド家であった。
当初、国家建設の地はパレスチナと決まっていたわけではなかった。それを決定づけたのは、迫害を受けるユダヤ人の古い「宗教的シオニズム」の強い感情であった。ユダヤ人は、他のすべての民族とは区別された「選ばれた民」であり、救世主メシアの到来によって、長い放浪を経て最終的に聖地に帰還するというキリスト教殉教者ジャスティンの言葉に基づく神話への信仰であった。
政治的シオニズムは、旧約聖書の「約束の地」への帰還という宗教的シオニズムと結びつき、それを利用することによって、パレスチナにおけるユダヤ人国家建設の目標をついに確定した。そしてシオニストは、この目標実現の望みを帝国主義大国の援助と保護に求め、その見返りとして中東における帝国主義の利益に貢献するユダヤ人国家を提供する、という基本線を決定したのである。ここからアラブ人の排撃とパレスチナからの追放へと繋がっていくのである。ヘルツルの当初の反動的ブルジョアナショナリズムの思想は、今や人種差別的帝国主義的植民地主義のイデオロギーに転化した。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、何世紀もの間、平和的に共存してきたパレスチナの歴史は、政治的シオニズムと宗教的シオニズムとの結合によって遮断され、葬り去られたのである。
英帝国主義の戦略的道具となったシオニズム
パレスチナは、衰え始めた大英帝国によって、非常に好都合な拠点とされた。国際的な植民地貿易にとってパレスチナの戦略的な地理的位置が決定的要衝であり、イギリスと植民地インドを結ぶ最短航路・陸路の中心にあった。しかも、周りには後に争いの的となる豊かな石油資源を擁する広大な地域が控えていた。イギリスの政治家の多くがパレスチナへのユダヤ人入植を求めたのは、英帝国の通商特権と植民地との通商路を確保し続けることによって、競合する勢力を排除することが第一の目的であった。
英帝国主義と西欧列強は、アラブ・マグレブ(北アフリカ)とアラブ・レバント(アラブ東洋)を隔てる地理的空間に、忠実な「異質な存在」を植え付けようとした。それは、「汎アラブ」民族解放運動の台頭を阻止するために、不安定で不均衡で無秩序な恒久的状態を作り出す楔となるシオニストの存在を必要とした。
シオニスト勢力は、パレスチナの全領土と、さらにその先の領土を掠め取ろうとする自らの強欲な計画と並行して、欧米列強のために戦争を忠実に遂行するように最初から計画されていたのである。
「反ユダヤ主義」を利用するシオニスト
ナチスがドイツで権力を掌握したとき、シオニストたちは、反ユダヤ主義がシオニズムの同盟者であるというヘルツルの認識を共有し、ナチスと協力する唯一のユダヤ人グループだった。ナチスとシオニストとの共闘!?信じ難いが歴史的事実だ。実際、ナチズムをユダヤ人の最大の敵として認識していた他のすべてのドイツ系ユダヤ人(そしてドイツ内外のすべての人々)とは対照的に、シオニストはパレスチナの植民地化を強化する好機と考えたのである。1933年、「労働シオニズム」はナチスと「ハアバラ」協定(Haavara Agreement、1933年8月25日にナチス・ドイツとシオニスト・ドイツ系ユダヤ人の間で締結された協定)を結んだ。1935年、ドイツ・シオニスト支部は、ナチスの「ニュルンベルク法」(ユダヤ人から市民権を剥奪した法)を支持した唯一の政治勢力であり、1938年の「水晶の夜」(ナチスによる全国的反ユダヤ暴動)の後まで、独自の新聞『ルンツシャウ』の発行を許された唯一の政党であった。
ナチスの敗北とともに国家主導の反ユダヤ主義が消滅し、ナチスのホロコーストの惨状が知られるようになると、シオニストは反ユダヤ主義運動やナチス政権との協力の歴史の多くを隠そうとした。しかも、シオニズムが反ユダヤ主義の脅威への対応であると考えるなら、国家反ユダヤ主義が消滅すれば、シオニズムの存在意義は危うくなる。戦後の新たな時代を踏まえ、シオニストは多くの国で自らユダヤ人を攻撃し、シオニズムに反対する国々で反ユダヤ主義の亡霊を呼び起こすことに着手さえした。
イスラエルは絶えず「反ユダヤ主義」を作り出し、作り出さなければならない。それが、現在進行中のパレスチナの植民地化に対するあらゆる国際的な批判や非難に対するイスラエルの主要な防衛線だからだ。「反ユダヤ主義」を持ち出せば、虐殺でも領土拡張でも許されるようになった。イスラエルの言う「反ユダヤ主義」は、ユダヤ人によるパレスチナ植民地化を継続するためのカムフラージュなのである。
イスラエルを建国した欧米帝国主義とシオニスト
1947年11月に国連で採択されたパレスチナ分割決議は、パレスチナ民族やアラブ諸国の意向・意志を無視して作られた一方的なものであった。シオニストはこの決議を利用して、軍事力でパレスチナの土地を簒奪し、パレスチナ民族を排除・追放し(1948年のナクバ)、一方的に「人工国家」を作り上げたのである。「世界シオニスト機構」は、その本部を米国に移し、米国に頼ることを決定した。
戦後、英仏のアラブ植民地が崩壊すると、米国はこの石油資源の豊富な地域全体に介入を強化した。そのための最重要拠点に据えたのがイスラエルである。バイデン大統領は幾度となく口にした、「イスラエルがなかったら、米国はイスラエルを発明しなければならなかっただろう」と。
しかしイスラエル建国の初期、米国はイスラエルに対するアラブの敵対心を刺激することを恐れ、イスラエルへの資金・武器援助を隠した。西ドイツに補償金を出させ、武器供与は秘密裏に行った。米国が公然と援助主体として現れたのは1967年の六月戦争からである。
実際には、資金調達に関して、米国はイスラエル建国プロセスの主催者であり、推進者であり、資金提供者(the organizer, driver, and financier)であった。1948年から1962年にかけて、イスラエルは米国から32億米ドルを超える資金を調達し、農業入植地の整備と拡大、住宅の建設、道路、港湾交通機関の整備と更新、住民への食糧供給に充てた。
米国は、六月戦争後、対イスラエルの最大の資金供給源になった。同戦争後の5年間に米国が提供した援助は、戦争前の20年間に提供した援助の2倍を超えた。
米国の投資は、イスラエル建国以前から重要な役割を果たした。これらの投資先と「イスラエルのためのユダヤ機関」(Jewish Agency)との協力関係は大きかった。例えば、1942年に設立された米・パレスチナ会社は、米の資本主義とシオニズムを結びつける巨大な独占企業である。同社は占領下のパレスチナ国内に多くの企業を設立した。
今日に至るまで、民主党と共和党の政権交代があっても、米下院の決定や立法を通じて、米国の援助は継続され更新されている。アル・ハーシュは指摘する、「イスラエルは米国の州の一つである(one of the states of the United States)」と。
西側国家=国際金融資本がイスラエル帝国主義を丸抱え
シオニスト政権設立当初から、米、フランス、西ドイツなど帝国主義諸国も、国際金融資本(ロックフェラー、モルガン、ゴールドマン、サックス、リーマン、リーブ、グッゲンハイム、ムラザー、コーン)も、積極的にシオニスト機関と繋がってきた。外国資本、資本輸入はイスラエル経済発展の基盤であり原動力となった。イスラエルにおける一人当たりの資本形成率は世界最高となり、民間部門を含む経済全体が海外からの援助・投資に完全に依存するようになった。国家が管理するルートを通じて、移民、入植、雇用プロジェクトに資金が流れ込んだ。
西側帝国主義の対イスラエル投融資の目的は、当初、イスラエルへの移民を奨励し現地で移民を受け入れ、農業と工業を発展させることだった。しかし、シオニストの占領が困難に直面するたびに、イスラエル経済にドイツの賠償金や米援助金を注ぎ込み、二国間貿易協定、融資、輸出入のための債券販売、米の余剰農作物への融資、直接民間投資の奨励などの形で資金提供を行った。一方的な資金移転、無償譲渡がイスラエル経済発展の特に重要な特徴となった。一般的には国内資本形成は自国が行うものであるが、イスラエルの資本形成は、専ら米・西側帝国主義大国によって行われたのである。
いわば、国際シオニズムと西側帝国主義大国が、イスラエル経済を丸抱えで維持・発展させ、今日のネタニヤフ政権に至る大量虐殺戦争を遂行するファシスト戦争国家を作り上げたのである。ここにも「シオニズムと帝国主義の一体化」が現れている。
自立した「小さな植民地帝国」を目指すイスラエル
イスラエル建設は、帝国主義のアラブ地域への覇権の拡大とそこでの権益を守るための主要拠点として、またアラブ民族解放運動の台頭及びアラブ諸国の発展を抑制し、阻止するための、欧米帝国主義のためのシオニスト・プロジェクトとして始まった。
しかし、何をやっても許されるイスラエルは、増長してアラブ地域を支配しようとする独立した野望を抱くようになった。その最初の好機は「六月戦争」(1967年)時に訪れ、イスラエルはパレスチナの全土、シリアのゴラン高原、エジプトのシナイ半島を占領した。イスラエルは、パレスチナを越えて拡大するというシオニストの野望を実行に移した。
「十月戦争」(1973年)後、イスラエルは、多国籍企業の拡大のための代理基地(proxy base)という役割に限定されることなく、アラブ地域内で領土・勢力圏の拡張を目指す形で、イスラエルの自立帝国主義的発展を追求するようになった。
イスラエルを支配する財閥の大多数は、退役軍人かその子孫である。20家族がピラミッド型のコングロマリット財閥(金融資本)を形成し、イスラエル経済を支配している。銀行業の独占的集中度は高く、ハポリアム銀行とレウミ銀行の2大銀行が銀行業務の60%以上を支配し、上位5行が90%以上を支配している。財閥の中でもハポリアム銀行を頂点として60の独占資本を有するノチ・ダンクナー財閥が最大である。またこれらの財閥は軍産複合体を形成し、武器輸出が主要な外貨供給源であり、国際収支はますます軍需産業に依存している。
イスラエルは今や、軍事力を軸に古典的な領土拡張植民地主義と、新植民地主義的市場・石油・ガス権益の拡張の両輪を推進力として帝国主義的強欲を赤裸々にしている。いわば「小さな植民地大国(a small colonial power)」への変貌を遂げている、とアル・ハーシュは警告する。
今回のガザ大虐殺戦争を通じて、ネタニヤフが目論むパレスチナ民族のシナイ半島への強制移住=追放計画による領土拡張も、「新中東」構想も、このイスラエルの入植者植民地主義的領土拡張と新植民地主義的権益拡張を結合させ、その凶暴性を増幅させた自立帝国主義的発展の延長線上にある。忘れてならないのは、それでも、米・西側帝国主義の支持・援助抜きにイスラエルは成長できず、大量虐殺戦争を遂できないということである。