関東大震災100年、植民地支配と大虐殺の真実を問う 虐殺の真相糾明と謝罪・賠償を政府に迫ろう

1923年9月1日、最大震度7、マグニチュード7・9の巨大地震が関東地方を襲った。被災地域は南関東一円から東海地方に至る東京府と周辺9 県という広範囲に及び、死者は10万5千人(9割が焼死)以上、全焼・全壊家屋は29万棟以上にのぼったと推計されている(2009年「中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会による調査報告書」等)。この大災害の渦中に、当時の政府・軍・警察・自警団と日本の民衆によって、朝鮮人6000人以上、中国人700人以上、社会主義者や無政府主義者、労働運動活動家が虐殺された。地方出身の日本人や障がい者らも「朝鮮人狩り」の中で殺害された。今年は、関東大震災から100年目であると同時に、関東大震災朝鮮人・中国人大虐殺事件から100年の節目となる。

  日本政府は、事件の直後から虐殺事実を隠蔽し続けた。今年、8月30日の記者会見でも、「虐殺事件についての政府見解」を求められた松野官房長官は、「政府内で事実関係を把握できる記録が見当たらない」と従来の回答を繰り返し、今後の調査も否定した。岸田首相は、9月1日、「関東大震災の記憶を風化させることなく、創意工夫を凝らして災害に強い国づくりに取り組む」とだけ述べ、虐殺事件と国家責任問題を完全に無視する態度をとり続けている。

  今年、東京や大阪をはじめ全国各地で、朝鮮人・中国人虐殺100年を問う数多くの集会やシンポジウム、追悼式などが開催され、今も続いている。私たちも、各地でそれらの集いに積極的に参加した。民族団体や個人、研究者らによって数十年に渡って見つけ出され積み上げられた公文書を含む多くの文書や画、当事者らによる記録や証言等に接し、そこで提起された、大虐殺事件は朝鮮に対する侵略と植民地支配の結果であり、その宗主国内での現れの一つであるという歴史的事実、国家及び民衆の過去・現在・未来に対する責任についての問題提起に学んだ。

 日本政府に虐殺の国家責任を迫り実行させる第一歩は、私たち自身が虐殺事件の真実、原因及び責任と真剣に向き合い、政府に国家賠償と謝罪、真相調査とその内容の歴史教育への反映を要求していくことだ。

  100年にあたり、重要な文献や資料が数多く発行されている。それらの中で、最新の発見を含めて、掘り起こされた膨大な資料の中から重要なものを最もコンパクトに精選し、虐殺事件の史実と原因、責任をわかりやすく解説していると思えるものを紹介したい。一つは、現在も開催中である2023年高麗博物館企画展「関東大震災100年~隠蔽された朝鮮人虐殺」のパンフレットである。本企画展は、東京・新大久保の同博物館で12月24日まで開催されているので、見学とパンフレットの購入を薦めたい。もう一つは、「Q&A 関東大震災100年 朝鮮人虐殺問題を考える」(「フォーラム平和・人権・環境」発行 八月書館2023・9・1)である(発行者または出版社のHPを通じて購入可能)。

 以下は、これらの文献にも基づきながら、この問題について考え、議論するための素材として簡単なまとめを試みたものである。学習と議論を継続し、政府に隠蔽と改竄を許さない真相の究明と謝罪と賠償、歴史教育と排外主義を許さない教育の実現など世論への働きかけを強め政府に要求する取り組み等につなげていきたい。

大虐殺(ジェノサイド)を「主導」した国家、「加担」した民衆

 関東大震災発災当日の9月1日の夕方から「社会主義者と朝鮮人が放火(1日15時頃、警視庁記録)」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」等の流言が広がり、夜には現墨田区・八広の旧四ツ木橋付近では「朝鮮人20~30人が自警団と一般人によって(目撃者証言)」虐殺される事件が起こった。

  しかし、流言が明らかになるより前、発災からわずか2時間後の午後2時頃、赤池濃警視総監、内務省の後藤文夫警保局長が、水野錬太郎内務大臣に戒厳令発布の必要を申し立てた。水野は1日夜中に決定し、翌2日の午前中、枢密院にはかることなく「緊急勅令」の形で戒厳令を発布した。2日午後には東京市とその周辺5郡に、3日には東京府全域と神奈川県に、4日には埼玉県と千葉県にも適用された。戒厳令発布前の2日午前中には、すでに軍隊による朝鮮人虐殺が開始されている。野戦砲兵旅団第1連隊の第4救援隊が東京・小松川で朝鮮人労働者200人を虐殺、同日午後には習志野騎兵連隊が亀戸で列車から朝鮮人を引きずり下ろして虐殺、夜にかけて「朝鮮人狩り」を始めた(同連隊所属兵士の日記)。

  また、2日には警官たちがメガホン、伝騎、張紙で「朝鮮人が井戸に毒、放火」等のデマを言いふらし始めた。内務省の指令により埼玉県内務部長が県下町村に「朝鮮人に対する警戒」を指令した。3日朝には、後藤警保局長が各地方長官に「朝鮮人の取り締まり」を命じた電文を船橋海軍無線電信送信所から送った。

 戒厳令と内務省通知によって、3日以降、関東はじめ全国の新聞が「朝鮮人暴動」のデマ情報を盛んに報じ始める。このような状況を意図的に作りだし、戒厳司令部は、関東一円に在郷軍人会・青年団・消防団に一般人を加えた「自警団」を組織させ、「不逞鮮人」の「暴動」への「自衛」「対処」を命じた。その中で、「自警団」組織された民衆による朝鮮人・中国人虐殺が京浜地帯、その他関東各地に拡大していった。この中で、日本人民衆も虐殺に積極的に加担し、多くは同調し、また傍観したのである。

  「国家が「主導」し民衆が加担したジェノサイドです。戒厳令を施行して軍隊と警察に電報を通じてデマを『事実』化し、自警団の結成まで指示した国家の責任は免れ得ません」(上記「Q&A」冊子p20)

関東大震災ジェノサイドの隠蔽をはかった権力

 内閣総理大臣直轄の臨時震災救護事務局警備部は、9月5日になって、「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力調査し、肯定に努めること」という方針を決定する。朝鮮人による暴動をでっちあげようとしたのである。司法省は、10月20日になって、これまで報道を禁じていた朝鮮人虐殺事件記事を解禁すると同時に、司法省は朝鮮人「暴動」が事実であるかのように発表させた。ところが司法省が「犯罪者」と発表した者の約80%が姓名不詳、所在不明、死亡、逃亡とされ(山田昭次調査等)、結局「暴動」の証拠は得られなかった。

 また、警察は意図的に虐殺された遺体の引き渡しを拒否し、遺体を秘密裏に遺棄したり、日本人死者と一緒に埋めることによって、虐殺の証拠を徹底して隠滅した。さらに、軍と警察による虐殺事実はもみ消し、逮捕・起訴を自警団に限定した。虐殺事件への国際的な批判を自警団に押しつけたのである。

虐殺の背景にあった植民地人民、社会主義への恐怖

 関東大震災発災からわずか2時間後には、超法規的に「緊急勅令」による戒厳令発布へと動いた政府と内務官僚の決断。その背景に何があるのか。国家権力が、軍と警察を指揮して「自警団」を組織し武装させ、朝鮮人、中国人、社会主義や労働運動を武力で弾圧する体制を大急ぎで作らせた背景は何か。この背景の中に、政府・軍・警察、同調した民衆が「問答無用」の虐殺行為に及んだ理由ある。

 日本の政府・軍は、植民地支配に抗して農民たちが蜂起した甲午農民戦争(1894年~95年)では、「悉く殺戮すべし」の電信(大本営秘密命令)と駐韓井上馨が日本政府に派遣要請した部隊による「殲滅」(ジェノサイド)作戦を強行し3万~5万人ともいわれる朝鮮人を殺害した。日露戦争時の武力による民衆迫害は抗日義兵戦争(1905年~14年)につながって全国に広がり、階層を超えた本格的な民族運動となった。日本軍は、9年にわたって1万8千人以上を殺害しただけでなく、義兵の根拠地を根絶やしにする目的で村落全体への無差別焼夷(焼き尽くし)、虐殺、性暴力に及んだ。

 4年後、朝鮮民族の怒りが爆発する。1919年3月~5月に朝鮮半島で独立運動が起きた(3・1独立運動)。全土で約200万人が参加する大闘争となった。東京やソウル、世界各地での独立宣言書の発布から始まり、朝鮮半島では最初の段階では宗教者・学生が大きな役割を果たし、徐々に全国に広がっていくなかで階層を超えて運動が拡大していった。上海には大韓民国臨時政府が樹立された。

 同時期に日本は、「シベリア出兵」による革命ロシアへの干渉戦争を開始していたが、多くの朝鮮人・中国人が革命側に参加した。この戦争で、日本は中国と朝鮮の国境近辺の朝鮮民族運動(独立軍)を弾圧する名目で間島に出兵、1921年5月までに数千名を殺害し多くの家屋が焼夷・破壊された。ロシア革命後、国内では18年の米騒動、22年日本共産党結党など、社会主義思想が浸透しつつあった。その最中の23年メーデーに在日朝鮮人労働者が初参加し、「植民地解放」のスローガンを採択する。

 朝鮮人民・社会主義者・労働者の闘い、反植民地闘争は、一方の当事者であり、実際諸事件を経験・指導した官僚・軍人(水野内務大臣、後藤内務省警保局長、赤池警視総監、正力警視庁官房主事ら)の恐怖心を、大震災という「非常時」に、一層抱かせるものとなった。3・1独立運動を機に、日本政府は新聞各紙を使って、「不逞鮮人」という見出しを使って朝鮮人は「陰謀」「放火」「強盗」「恐ろしい」「何をするか判らない」「日本人に復讐する」というプロパガンダを開始する(19年3月までゼロ。同4月から23年に175件。金富子「大原社会問題研究所雑誌No・669 2014年」)。

 朝鮮人・中国人、社会主義者の大量虐殺が引き起こされたのは、明治以来権力によって植え付けられてきた日本人の朝鮮人差別意識、民族排外主義の延長線上に、3・1独立運動をはじめとする日本の植民地支配を揺るがす朝鮮人民による抵抗と反植民地・独立戦争への恐怖が重なったからである。ジェノサイドを繰り返して植民地支配を維持したことへの見返りに恐怖を抱いたのである。

 日本帝国主義は、この植民地支配を今でも「合法」「正当」だと主張し続ける。ジェノサイドが「正しい」と言えるわけがない。事実を100年間隠し続け、これからも隠し続けようとしているのである。

100年続く真実の隠蔽と課題

  一つ一つ丹念に掘り起こされ確認されてきた事実は、関東大震災大虐殺事件の責任が、主導した国家権力にあり、またそれに加担した日本民衆にあることを明らかにしている。しかし、政府は100年を経た今も責任を認めず、被害者への謝罪・補償はおろか、調査を行うことも拒否し続けている。

 2015年以降、朝鮮人・中国人虐殺をめぐって国会で8回にわたり質問主意書が提出されているが、政府はそのたびに「事実関係を把握できる記録が見当たらない」という答弁を繰り返してきた。今年5月23日、立憲民主党・杉尾参院議員が、虐殺を裏付ける記録が国会図書館に存在していることを指摘した上で、政府の対応・責任を質した。しかし、楠警察庁官房長は、事実関係を把握できる記録は「見当たらず」、仮に資料を確認しても「内容を評価することは困難」と答弁した。谷防災担当相は「さらなる調査は考えていない」と突き放した。

 6月25日には、社民党党首・福島参院議員が、参院法務委員会で、中国人犠牲者への慰謝料支出決定文書や、朝鮮人「暴動」などのデマにお墨付きを与えた内務省の電信文の政府保有を認めさせが、政府は虐殺の事実を認めなかった。

 虐殺を目撃した在日朝鮮人の人権救済申立を受け、日弁連は2003年、国の責任を認め、政府に、謝罪と真相の調査を行うよう勧告した。しかし、政府は未だに無視している。東京都の小池都知事は2017年以来、朝鮮人追悼式典への追悼文送付を拒否し、追悼式典にぶつけて行うヘイト団体の集会に開催許可を与えている。都知事は、かつてこの団体で講演会を行った「確信犯」である。

 政府・東京都のこうした姿勢は「虐殺否定論」や歴史修正主義を勢いづかせている。「つくる会」歴史教科書が検定合格(2001年)、第1次安倍内閣時の在特会によるヘイト街宣活発化(07年以降)、09年「朝鮮人暴動の事実はあった」(工藤美代子)、14年「朝鮮人虐殺はなかった」(加藤康男)まで現れる。これらを根拠に、教科書や副教材から虐殺に関する記述を抹消させようとする攻撃や圧力が続いている。(神奈川新聞2016年12月27日〈時代の正体〉朝鮮人『虐殺』と記述せず 横浜市教委副読本、高麗博物館企画展パンフp14、「Q&A」冊子p57等参照)

政府は国家責任を認め、謝罪と賠償、真相調査と教育を徹底せよ

 とくに安倍政権以来の日本の民族排外主義の異常さは目を覆うばかりである。それは、安倍・岸田と続く「戦争する国づくり」とは無縁ではない。安保3文書の策定、日米軍事同盟の強化による対中戦争準備、沖縄・南西諸島へのミサイル配備=「敵基地攻撃能力」の獲得、軍事予算の増大等々。外交及びメディアを通じて毎日のように繰り返される反中・嫌中プロパガンダ、闘いがなければ闇に葬られた日本入管による殺人と人権侵害、在日外国人に対する差別と人権侵害、朝鮮学校への圧力と補助金・無償化差別、繰り返される「○○帰れ」「殺せ」などのヘイトスピーチや暴力。在日の当事者は、ヘイトスピーチを聞くだけで、「いつ殺されるかわからない」という恐怖に足がすくむと語っている。それでも、排外主義イデオロギーが、憎悪・敵意・軽蔑等負の感情を伴って今も煽られている。

 日本政府がかつての虐殺や植民地戦争の真相を隠そうとするのは、植民地人民やアジア人民の抵抗をジェノサイドで封じ込めた植民地支配の事実、性暴力を含むあらゆる暴力と略奪を伴った戦争犯罪、それらを実行させ、また実行した責任を明らかにさせないまま、次の戦争に突き進むためである。今あらためて、植民地支配と戦争加害の調査と真相究明、国家責任の確認と謝罪、国家賠償、これらすべてを次代に伝える教育の実現を強く求めていきたい。

(MK)

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