中国テレビのドキュメント番組「台湾光復」(2022年9月18日から4回放送)を紹介する。台湾を植民地支配した日本軍に対して、台湾を含む中国人民が闘いを挑み勝利するまでの約50年の歴史を描いている。メディアは一切報じず、私たちも知らないことばかりだ。岸田政権が「台湾有事」を口実に対中戦争準備を加速する中で、私たちは今、まさに明治以来の天皇制日本軍国主義が台湾を舞台にどのような戦争犯罪、植民地犯罪を犯したのか、歴史を振り返り、反省すべきである。 (高)
日本は中国人民に敗北した
番組の冒頭のシーンは、日本でもよく知られた1945年9月2日の米軍戦艦ミズーリでの無条件降伏の調印式だ。この映像の繰り返し報道で、日本では、敗北の相手は米国だと思い込まされている。だが、番組はこの調印式に続けて、中国各地で行われた日本軍の中国への降伏式を伝えている。1945年9月9日午前9時、連合国中国作戦区日本軍降伏調印式が、南京国民政府中央軍校大ホールで行われた。この時、中国15作戦区の降伏先で次々、降伏式が行われた。その中の1つが台湾だった。1945年10月25日、中国作戦区台湾省の降伏式が台北中山堂で行われた。この日、日本の台湾での50年にわたる植民統治が終了し、台湾はついに祖国・中国の懐へ戻った。日本では、これは報道されない。日本軍の大半は中国に侵略し暴虐の限りを尽くしたあげく中国人民に屈したのである。この歴史の真実を改めて認識すべきだろう。
台湾は古来、中国の領土
次いで番組は、台湾が古来から中国の領土であることを示す。オランダ・ハーグ国立文書館に収蔵されている350年以上前の「バタヴィア城日誌」は、「台湾は中国の土地だ」と記している。台湾は古来から中国の領土だ。だが、大航海時代に入った1624年、海の強国オランダは台湾を占領した。1662年、民延平郡王の鄭成功は台湾各民族の支持を受け、オランダ人入植者を追放しオランダによる38年の統治を終わらせた。1683年、清朝の康煕帝は福建水師提督・施琅を派遣し、台湾を平定し中央政府の管轄下に置いた。そして康煕帝は、台湾が中国の海防上、重要だとして1府3県を置くよう命令した。台湾の地方行政制度は大陸と完全に一体化された。
明治維新直後から台湾侵略を開始
日本では普通、台湾は1894年~95年の日清戦争の結果、日本の植民地になったと教えられている。しかし、実際はもっと早い。番組は中国側から日清戦争の前史に触れる。日本は明治維新直後から台湾を狙っていたのだ。1872年10月、明治天皇から台湾でスパイ活動を行うよう命令を受けた陸軍大隊長・樺山資紀は1873年に台湾島に上陸し、台湾出兵の準備をした。1874年5月、日本海軍中将の西郷従道が軍艦4隻と陸海軍兵3600人以上を率い、樺山がスパイ活動をした瑯チャオに上陸し、台湾侵略戦争を開始した。台湾へ深く入った日本軍は、現地住民の抵抗やマラリアの流行で死傷者を多数出した。巨額な軍事費に後方支援も難しく、日本軍は進退窮まった。日本政府は各方面で不利と見て、清政府総理衙門と撤兵協議をすることにした。イギリスなど列強の干渉を受け、清政府と日本は北京専約を締結。台湾全土が中国の領土と再度表明。さらに日本への銀50万両の賠償を承諾し、代わりに日本軍は撤退した。
明治天皇の財産で日本海軍拡張
日本政府は1886年、中国北洋艦隊の長崎訪問を逆手にとって中国脅威論を煽り、中国侵略ムードを作った。その時から日本は全力で軍備拡張を始めた。明治天皇は将来的に海軍規模で、当時海上勢力最強のイギリスを追い越すとも誓った。明治天皇は毎年公金銀30万元の私的費用を海軍建設に支出。その費用は皇室支出の10分の1を超えた。いわゆる恩賜金だ。軍艦建造費を超法規的な格好で出した。その意味で、日本の軍近代化に天皇の財力が大きく影響している。
日本の日清戦争勝利が列強による中国分割の突破口に
天皇制日本の犯罪は、台湾を植民地にしただけではない。1894年7月25日、日本海軍は中国艦隊と軍隊輸送船を突如攻撃し、日清戦争を引き起こした。中国北洋艦隊は、全軍沈没し、日清戦争に敗北する。清は和議を迫られ、1895年4月17日、中国の遼東半島、台湾全島及び附属島嶼、澎湖諸島を日本に割譲する下関条約が締結された。
この日本の勝利が西方列強の全面的な中国分割の突破口になったのである。1897年、ドイツは武力で膠州湾を占領し租借、山東はドイツの勢力範囲になった。同年11月、ロシアは旅順口と大連湾を占有し、勢力範囲を東北全域に拡大。フランスは広州湾を租借、イギリスは新界と威海衛を租借。中華民族はたちまち植民地と半植民地の暗い深淵に沈み、かつてない生存の危機に直面した。
台湾の経済と資源の略奪
日本は台湾民衆の抵抗を残酷に鎮圧すると共に、豊富な自然資源に略奪の手を伸ばした。台湾の貴重なベニヒは台湾の少数民族にとり祖先と精霊の住まいだ。樹齢1000年以上の木も多く、2000年以上の樹王も少なくなかった。日本は登山鉄道を建造し、壊滅的略奪を始めた。30万本の大樹が伐採され、日本に運ばれ皇居や神社の梁や柱に使われた。
日本は台湾の木材や石炭を略奪するため、南北縦貫鉄道を建造した。縦貫線完成後、日本の台湾での経済と資源の略奪はしたい放題だった。悪名高い毒物であるアヘンは、日本国内では条文で売買を禁止されていたが、台湾では台湾総督府がアヘン貿易を容認した。すぐにアヘン売買は台湾総督府の主要財源になり、台湾民衆の心身を毒す邪悪な道具にもなった。
砂糖は日本の熱狂的略奪対象で、日本占領期、生産量が激増した。専売政策の下、日本の戦備需要で台湾の産業はいびつに発展。樟脳業、製糖業だけでなく、日本は行政権を用い、台湾の製塩業独占も開始し、1914年に台湾の製塩業は日本企業10社に握られていた。茶や米などの重要農産物も同様だ。日本の植民地経済、搾取政策で、台湾は日本工業の原料産地と商品販売市場になった。
大量虐殺、血の弾圧 屈せず抵抗する台湾人民
日本が台湾を侵略占領した50年間、台湾人民の抵抗が続いた。当時の民衆の武器は非常に簡素で、闘争も軍事訓練も未経験、多くの場合、武器はシャベルや竹槍、木の棒だった。対するのは、先進装備を持つ訓練済みの精鋭日本兵。1895年8月28日早朝、抗日最大合戦である「八卦山戦役」が戦われた。彰化義軍3000人と日本軍1万5000人が八卦山で3日3晩戦い、包囲突破した生存者は50人に満たなかった。日本軍の損失も甚大で、1000人以上が死亡した。近衛師団長の北白川宮能久親王も負傷し、間もなく台南で没した。
1895年11月中旬、台湾初代総督・樺山資紀は全島を完全に平定したと宣言した。日本軍は兵力7万人以上、常備艦隊の大部分を動員し、死者4800人以上、負傷者2万7000人以上を出し、台湾を占領した。
台湾は表面上、日本軍の管理下に入ったが、台湾の民衆は屈服しなかった。日本軍は警察と軍を大規模動員し、放火・殺人・強盗・略奪を行い、血生臭い手段で台湾民衆を脅かした。残酷な殺戮と過酷な統治が台湾を覆った。研究者は、「1898~1902年の5年間に、後藤新平の手で、1万数百人が殺された」と言う。
その後も台湾人民の闘いは続いた。1930年10月27日、霧社地区のタイヤル族マヘボ社等の人々が、頭目モーナの先導で、警官駐在所を襲い、日本軍と警官134人を殺害し、銃180挺を奪った。台湾総督府は即座に軍を出し鎮圧。霧社6部落は断崖絶壁や山奥の洞窟に退き、頑強に抵抗し、日本軍に大損失を与えた。1930年12月8日、1ヶ月以上続いた蜂起は失敗。戦闘に参加したタイヤル族1236人のうち、564人が逮捕され、644人以上が戦死した。タイヤル族の多くが敗退後も信仰を守り崖から飛び降りた。いわゆる霧社事件である。
台湾人民に皇民化を強制
1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に中国全土で抗戦が開始されると、台湾総督府と当時の台湾総督・小林躋造は皇民化運動を強制的に推し進めた。日本人を内地人、台湾人を本島人と呼び、二等公民扱いした。公共の場所や学校で日本語を強要し、台湾語で話すと処罰した。台湾社会掌握のため、日本は台湾人の民族と祖先へのアイデンティティを傷つけ、寺院を死者の位牌と換えさせた。1940年、台湾総督府は改姓名法を公布し、漢姓を廃し日本姓に改める運動を進め、文化面で台湾民衆の中国意識を排除しようと企んだ。だが、台湾人は苦労しても衣食に不自由しても姓を変えず、帝国主義統治者に屈服しなかった。改姓名法令開始1年余りの1941年末までに姓名を変えた者は、台湾人口の1%未満だった。
徴用の強行~軍夫、兵士、性奴隷
1941年6月20日、日本は台湾で陸軍特別志願兵制度を始め、台湾青年を入隊させ侵略戦争に加えると決定。そのため、日本植民当局は宣伝活動を実施。宣伝の触手は学校にまで伸びた。太平洋戦争勃発後、台湾総督府は台湾男性20万人の徴用を計画。一部を軍夫にあて、もう一部を兵士にした。この20万人の耕地は一夜で、台湾拓殖公司の財産に変わり、日本移民に分配された。
それだけでなく、日本植民当局は、台湾に慰安所を設立し、脅迫、詐欺、誘惑などで、「慰安婦」を徴用した。第二次世界大戦開戦後、1年で慰安所7カ所を開設、1カ所に15人だった。第二次世界大戦中、日本軍は侵略占領地区で、アジア女性合計約40万人を性奴隷とした。内、台湾女性は2000人以上に達した。
全中国人民の反ファシズム戦争 台湾の解放は全中国の解放と一体
1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に日本は武力で中国全土を併呑するため、北平(北京)南西の苑平を砲撃し、中国侵略戦争を発動した。中国軍は抵抗を余儀なくされ、ここに全国的抗戦が始まった。
番組で、台湾世新大学教授・王暁波は言う。「台湾人は盧溝橋事件前、抗日で大陸へ行っても抗日の話しをできませんでした。当時、民国政府には国交違反罪と呼ばれる法律があったからです。台湾人だけの抗日が盧溝橋事件後、祖国の抗戦と結びつきました」
1941年12月8日早朝、日本は太平洋戦争を引き起こした。「中華民国政府対日宣戦布告」は、一切の条約、協定、契約で中国と日本の間に関わるものは一律に廃止すると宣言した。これには、台湾を割譲した下関条約も含まれた。1942年1月1日、中国、アメリカ、イギリス、ソ連など26カ国の代表が、ワシントンで「連合国宣言」に署名。共にファシズム侵略に抗う世界反ファシズム同盟が形成された。
中国の抗日戦争は、反ファシズム戦争に大きく貢献した。日本軍が中国の奥深くまで入ってからは、共産党が指導する八路軍と新四軍が決定的に重要な役割を果たした。敵後方に拠点十数カ所を設立。これにより、日本軍侵攻を妨げた。後方で抗日を拡大し、あちこちで輸送線を攻撃し、遊撃戦を行い、全中国の抗日戦争勝利と世界の反ファシズム戦争に貢献したのである。この中国全人民の反ファッショ抗日戦争の勝利がなければ、植民地台湾の解放もなかった。
「一つの中国」の国際法的・主権的基礎
1943年11月22日、エジプトの首都カイロで「カイロ会議」が行われ、この「カイロ宣言」は国際法上初めて公式に、日本が50年前に占領した台湾と澎湖(ほうこ)諸島および1931年に占領した東北を中国へ返還することが必要だと認めた。1945年7月26日に発表された「ポツダム宣言」第8項でも、「カイロ宣言」の条項は履行されるべきで、日本の主権を本州、北海道、九州および四国ならびに我々の決定する諸小島に限ると明確に提起した。
日本降伏後の1945年8月17日、マッカーサーが連合国最高司令官名義で命令第一号を発令。カイロ会議以降の連合国決定の厳格な履行を再度表明し、中国による即時台湾接収を再確認した。この発令によって日本の台湾植民統治50年が終結し、中国の主権と領土が法的に回復された。第二次世界大戦の終結に伴う『カイロ宣言』『ポツダム宣言』『日本降伏文書』そのものが、台湾と大陸が一つの中国だという事実を雄弁に示している。これが「一つの中国」の反論できない国際法的・主権的基礎なのである。
すなわち台湾人民だけではなく、中国人民全体の抗日戦争、反ファッショ戦争への偉大な勝利なしに「台湾光復」、つまり台湾の植民地からの解放はありえなかったのである。「一つの中国」を蹂躙することは、多大な犠牲を経て闘いとられた中国人民の抗日戦争・反ファッショ戦争の歴史的意義を否定することなのである。