満蒙開拓平和記念館を訪ねた。記念館は長野県下伊那郡阿智村にひっそりと佇んでいる。
入口横に、「前事不忘、後事之師(前事を忘れず、後事の教訓とする)」の碑が置かれている。この言葉の重みは、入館前と後では大きく変わる。ここを訪れた多くの人が、同じ感想を抱いたのではないか。
村有地の無償提供と建設時費用の一部助成以外、行政の財政支援はない。飯田日中友好協会を中核とする完全なボランティアで、館の企画・運営と調査研究が維持されている。企画展や証言集会(語り部の会)、講演会も手作りだ。館内の写真撮影は禁止。遠い場所からでもこの場所に来て、感じ、そして学んで欲しいからだと思う。
『黒川の女たち』の最初の証言場所


今夏、ドキュメンタリー映画『黒川の女たち』(本紙117号参照)が公開された。敗戦に伴う過酷な逃避行の渦中、黒川村開拓団の同胞たちによって、数え年18歳以上の未婚女性15名がソ連軍将校への「性接待」という性暴力を強制された。映画は、「なかったことにはできない」と声を上げた5人の女性たちが真実を語ることを通して自らの尊厳を取り戻していく過程を記録している。彼女らに寄り添い、「尊厳の回復」に取り組んだ一世代下の人々の闘いの記録でもある。
犠牲者の「尊厳の回復」とは何か。それは、彼女らへの加害事実を「封印」し続けた開拓団遺族会を説得し、史実として確認させ、その根源にある加害と被害の連鎖、その責任を明らかにし、同じ過ちを二度と繰り返させないための教訓を導き、孫たちや未来の世代に共感を伴う引き継ぎを成すための闘いであった。記念館横の碑文「前事不忘、後事之師」の実践事例そのものである。
2018年、黒川村に建立された碑文には、「性接待」の事実と「開拓団」自身が侵略者であった事実が詳細に並べ記された。映画に登場する佐藤ハルエさん、安江善子さんが、初めての証言を行った場所こそ、開館直後(2013年)の満蒙開拓平和記念館であった。ここは、そのような場所である。
父の予科練志願と満蒙開拓青少年義勇軍
私は2013年に記念館の設立を知った。12年間も行かなかったことを改めて反省した。個人的な話ではあるが、1983年からの38年間を大阪府立高校の教員として過ごした私にとって、「満蒙開拓とは何か」は特別の重みをもっていたからだ。
一つは、私が父に教員採用受験を報告したとき、「わしは教育に騙された」とぽつりと言ったこと。父は、「本土決戦」に向けた特攻を覚悟して、旧制中学3年修了時の応募年齢に達した16歳で「海軍飛行予科練習生(予科練)」に志願し、敗戦間際まで岡崎海軍航空隊(愛知県)に所属した。予科練の募集人数は1942年までは最大でも全国で千人程度であったが、43年には33393人(12期・13期甲種)、44年には78572人(14期・15期同)という異様な「募集」体制がとられた。表向きは「募集」だが、政府が市町村毎に人数を割り当て、市町村は学校毎にノルマを課した。学校と教師によって10代の子どもたちが洗脳され、「戦死」のための訓練場に「動員」された。後に叔父から、「予科練志願には家族全員が反対したのに、おまえの親父は曲げんかった」という話を聞いた。農家の三男であった父は、教育によって、「志願は義務」と思い込まされたのである。学校を通じた「予科練」大量動員の原型を成したものこそ、1938年開始の「満蒙開拓青少年義勇軍」(後述)である。
「侵略」から「進出」に書き換えられた教科書
もう一つは、1982年に文部省が歴史教科書の検定を強化し、日本によるアジアへの侵略を「進出」と書き換えさせたこと。当然、中国や韓国をはじめとするアジア各国からの批判と抗議が殺到した。日本軍はアジア・太平洋戦争で、植民地を支配した日本人はアジアの人民に何をしてきたのか。日本の戦後教育が、事実を明らかにし、歴史の教訓に学び、伝える役目をサボタージュしてきたことに私たちはようやく気づきはじめた。同年、「アジアの女たちの会」等市民グループによるアジア民衆の視点からの戦争被害の証言集「教科書に書かれなかった戦争(Part1)」(梨の木舎)の取り組みが始まった。88年には「先生、忘れないで!『満州』に送られた子どもたち(Part6)」が刊行された。その結びには、教科書裁判を闘った家永三郎さんの「戦争責任」(岩波書店・1985年)から、「確固たる主体的判断」をもって、「まず、戦争中の自分の言動に厳しく自己批判を加え、その誤りを率直に告白し、自己批判を広く世に明らかにすることから始めなければならない」という言葉が引用されていた。私が教員を志望したことと「満蒙開拓とは何であったか」の問いは、一本の糸でつながっていた。
「封印」された事実の手がかり
1981年から99年にかけて30回にわたる「残留孤児訪日調査団」による肉親捜しと永住帰国の取り組みが始まり、「中国残留孤児」と満蒙開拓青少年義勇軍は、映画『蒼い記憶 満蒙開拓と少年たち』(1993年)も制作され、平和教育の教材として学校での上映会も取り組まれた。しかし、主に日本国内でクローズアップされたのは、ソ連参戦と敗戦による「逃避行」の悲劇と政治と教育が子どもたちを利用し犠牲にしたことにとどまっていた。敗戦時、「満州」には「満蒙開拓団」27万人を含む約155万人(国立公文書館・アジア歴史資料センター記録)もの日本人が入植していた。その大入植者団がどこからどのように送り出され、生活し、敗戦後にどう暮らしてきたのか。移民団の多くの人々が帰国しているにもかかわらず、具体的な実態はほとんど知られていなかった。
なぜなのか。「記念館」を訪れて、事実が「封印」されてきたのだということが理解できる。政府によって、また地域社会と日本人同士の加害と被害の複雑な絡み合いによって、幾重にも重なる加害責任の連鎖が「不都合な事実」として隠ぺいされ続けたのである。
中国侵略の駒として利用し切り捨てた日本政府
記念館は、「開拓民」に対する天皇制ファシズムによる加害を決して曖昧にしたり一般化したりしない。展示は根拠を挙げて以下の事実を示し、その犯罪性を問い糾している。
日本政府が1932年に傀儡国家「(偽)満州国」を武力によって中国人民に押しつけたこと。世界恐慌と凶作に苦しむ農村部と都市部のからの「人減らし」と「満州国」各地で起こる抗日抵抗闘争に対する武装植民政策として「満州移民」が開始されたこと。36年には20年で百万戸、五百万人の大量移民計画=分村・分郷移民(村ごと移民)を国策化した。その目的は、「満州」支配及び中国全土への侵略戦争の拡大、ソ連極東軍に対する関東軍の劣勢を補う戦力と軍事補給拠点となる「移民村」を「ソ満」国境に確保するためであったこと。侵略を中国全土に拡大して、さらに手薄となった関東軍の対ソ戦略を補う目的で、38年には、戦闘訓練を受けた14歳から18歳の少年を「満蒙開拓青少年義勇軍」として同国境に送り、最前線の武装任務に就かせたこと。敗戦までに全国の学校から85000人以上の少年を戦闘員として「ソ満」国境に送り込み、最終局面では、最初から「義勇軍」と「開拓団」を「人間の盾」として北部地域に取り残し、関東軍は朝鮮半島に近い安全地帯(作戦地域)に撤退する作戦であったこと。結果、女性、子ども、老人だけが取り残された「逃避行」で多くの犠牲者を出し、「開拓民」同士による「集団自決」「性接待」等の新たな加害や「中国残留孤児」を生み出したこと。そして、日本政府は敗戦時に、「居留民は出来得る限り定着の方針を執る(現地に留まれ)」(外務省・8月14日)、「満鮮に土着するものは日本国籍を離るるも支障なきものとす(日本国籍を捨てて現地に留まれ)」(大本営・8月26日)と避難民を切り捨て、さらに多くの犠牲を強制したこと。
記念館は、これらの事実、当事者、場所を掘り起こし、記録に留め、資料を集積し、史実を学び、責任を明らかにする場となっている。
国策被害と侵略加害の一体性に向き合う
記念館は、「開拓民」が中国の人々にとって加害者であった事実を明示している。
「開拓というが、その多くは現地農民達の家や畑を安い価格で買い取り強引に追い出したものであり、…日本人開拓団員の…『被害』の前に『加害』があった事実…を忘れてはならない」(記念館図録、寺沢秀文館長)
「中国の人々にとっては加害者に他なりません。土地を奪われ、肉親を殺害され、人間としての存在を脅かされ、癒やされないまま生きてきた中国人も多いのです。この深刻な事実を忘れて満州移民について語ることはできません」(「満州移民―飯田下伊那からのメッセージ」)
1963年に日中友好協会と中国政府の協力で建立された「方正日本人公墓」(中国東北地区で唯一)に反発した現地住民によってペンキがかけられ、公墓の鍵は今も堅く閉じられている。館長らは、この事実から、加害者である日本人の慰霊のための碑が現地中国人にとっていかに受け入れがたいものであるかを日本人はどれほど自覚しているのだろうか、と語っている。
加害事実そのものを否定し、何事もなかったかのように高市発言を容認する日本を見て、このままではいかんと改めて思う。
(元高校教員 H)
