
香港・広州を訪ねる機会があった。広東地域はアヘン戦争の舞台であり、太平天国の洪秀全の生誕の地であり、中国共産党の初期の主要な活動の場でもある。辛亥革命では袁世凱に追われた孫文が再起を図ったのが広州の地であった。その後、蒋介石の裏切りにより第一次国共合作が崩壊した後、共産党は都市において蜂起を実行、広州では1927年11月にわずか3日間だが、広州ソビエト政府が成立する。これが広州コミューンないし広州起義とよばれるものだ。抗日戦争では、香港が日本軍占領地域からの難民支援の拠点となり、占領地域は抗日ゲリラ戦争の舞台となった。共産党が指導する抗日部隊は華北の八路軍、華中の新四軍が有名だが、華南の広東では東江部隊が活躍し、日本敗戦の1年以上前の1944年6月までに形勢を逆転させ、その後日本軍を次々と追い出し、解放地区を広げていった。戦後、東江部隊は人民解放軍の一員として、中華人民共和国成立に至る解放戦争でも活躍をみせることになる。
こうした歴史的背景もあり、広州では至る所に革命史に関わる史跡や記念館がある。孫文に関する記念館・博物館だけでも3つもあり、1日や2日ではとても回り切ることはできない。今回は駆け足となったが、香港の香港歴史博物館、広州の広東革命歴史博物館、広州起義記念館の3箇所を訪ねた。このうち、広州起義記念館では、戦争勝利80周年を記念して「湾区烽火不朽の碑」(湾区とは広州から深圳、中山、香港に至る地域のこと)と銘打った抗日戦争歴史展(主催:広東革命歴史博物館)が行われていた。香港歴史博物館でも同様の企画展示があった。

予約なし、無料で参観できる会場は若い人たちでごった返していた。香港では(写真上)制服を着た中学生らが熱心にメモを取り、資料コーナーでレポート作成に取り組む姿がみられた。中国がいま若い人たちや子どもたちの歴史教育に力を入れていることがみてとれた。展示は「陥落」「抗争」「勝利」の三部構成になっていた。
陥落
広州は大規模な空襲の後、1938年10月21日に日本軍の手に落ちた。香港への攻撃は1941年12月8日、真珠湾攻撃と同時に開始され、同年12月25日に陥落した。続いて人民の殺戮、慰安所での暴行、略奪と致富など、占領下での日本軍による暴行の展示。広州の日本軍第四支部細菌部隊(8604部隊)についての展示もあった。そして子どもたちへの日本語教育や「日華協力」式典への参加強制など、文化面での侵略の展示へと続く。
広州が陥落した後、香港は日本軍の蛮行から逃れる避難先となり、「同心救済」として難民を積極的に受け入れた。

抗争
第二次国共合作の統一戦線のよびかけの元、共産党は不屈の闘争を行った。広州が陥落すると、広東の党組織を香港で再建し、広東人民抗日遊撃隊東江縦隊(東江部隊)を立ち上げ、日本軍の占領下にある地域でゲリラ戦争を行った。
東江部隊の功績の一つが「香港大営救」と呼ばれる大脱出劇だ。1941年12月に香港が陥落すると、抗日を主張していた知識人、芸術家や政治家らに身の危険が迫った。東江部隊は危険を冒して数百人に及ぶ人々を脱出させ、安全な地に移送した。
勝利

1944年に入ると東江部隊は攻勢をかけ、6月には「潜伏と生存」から「拡大と攻勢」へ完全に移行した。8月以降は飛躍的拡大をとげ、解放された地区に抗日民主政権を打ち立て、翌1945年の完全勝利に至った。米国による原爆投下が戦争を終わらせたというのがいかにでたらめか。展示の結語には「歴史を刻み、国恥を忘れず、革命の烈士を偲び、平和を大切にし、未来を創ろう」と記されていた。
(S)
