[1]はじめに――高市発言が呼び覚ました侵略戦争とファシズムの歴史
高市発言は、かつての天皇制日本による中国侵略とファシズムの残虐な歴史を呼び覚ました。それは、高市が「台湾有事は日本の存立危機」だと公言し、中国に対する新たな侵略戦争の野望をはっきりと口にしたからである。中国がただちに、1931年の9・18事変(満州事変)を引き合いに出して、「当時の日本が『満蒙は生命線』と言って侵略戦争を始めた」と真正面から批判したのは当然である。かつての「満蒙」がそうであったように、高市政権が「台湾有事」を口実に対中戦争を目論み、先制攻撃能力を増強する動きは、侵略戦争とファシズム化を同時に推し進める危険なテコとなっている。
日本の対中戦争準備は、先制攻撃能力確保で、対米従属同盟の下で相対的に独自に中国を攻撃可能な力を持つところまできた。これに呼応して、高市発言擁護と中国に責任を転嫁する反中プロパガンダの拡散、中国との平和共存の訴えに対する激しい敵意と攻撃など、一切の批判を許さない排外主義的・反中ナショナリズムが蔓延しはじめている。これらは、戦前の天皇制ファシズムが中国侵略と不可分に形成・発展・確立していくプロセスと、驚くほど類似している。中国にとって侵略戦争とファシズムは過去の歴史ではない、高市政権の対中軍国主義として、現実の脅威として立ち現れているのである。
にもかかわらず、天皇制ファシズムと中国侵略の不可分性、その戦争犯罪を直視する声はいまだ小さい。いま問うべきは、戦争犯罪と加害責任の全面的な可視化であり、対中戦争準備と国内治安弾圧体制強化の連動をいかに断ち切るかである。それが、新たな対中侵略戦争とネオファシズム化の暴走を食い止める出発点となる。
今回の特集は、前号に引き続き、日本の侵略・植民地支配と加害の歴史を直視し、戦争責任・加害責任に向き合う多様な取り組みを取り上げる。同時に今回は、侵略戦争の中では加害と被害が混在していること、被害を知ることの徹底から加害責任に向き合う平和教育の実践についても取り上げる。
[2]対中侵略と天皇制ファシズムは不可分であった
明治維新によって成立した絶対主義天皇制は、9・18事変による中国侵略の開始以降、財閥(金融資本)と寄生地主制の上に君臨する、相対的に独立した絶対主義的構造(宮廷貴族・軍部)を維持したまま、絶対主義的・ファシズム的天皇制へと段階的に転化していった。その過程は、中国侵略と表裏一体であった。対中侵略戦争の拡大が、ファシズム化を促し、国内の戦時統制・総動員体制の確立がさらなる侵略拡大を可能にする――戦前の天皇制日本は、対中侵略の拡大とファシズム体制の深化を相互に加速させたのである。
第1に、その前段としての治安体制づくりだ。大逆事件(1910年)を契機に、天皇制日本は、天皇制に挑戦する思想そのものを根絶やしにする国家体制へと一気に舵を切った。翌1911年の特別高等警察(特高)設置で、社会主義者・労働農民運動・植民地の独立運動への抑圧を大きく強化した。第一次世界大戦とロシア革命、米騒動と労働争議の激増、朝鮮三・一独立闘争、等々、日本資本主義・帝国主義の危機が一気に爆発する中で、絶対主義天皇制は自国と植民地において、「治安上の敵」を抑え込む治安体制づくりに血道を上げたのだ。そして治安維持法(1925年)によって思想・運動の根を切断した。反戦・反帝・反天皇制の運動基盤は、1931年の時点で大きく破壊されていたのである。
第2に、決定的転換点となったのが、9・18事変(1931年)による中国侵略戦争の開始である。それは、国内政治の軍国主義化・ファシズム化への直接的な起点となった。関東軍の東北占領、「満州国」デッチ上げ、5・15事件(1932年)、国際連盟脱退(1933年)、2・26事件(1936年)によって政党政治は瓦解し、軍部の発言力は飛躍的に増大した。こうして日本は侵略とファシズム化の螺旋にはまり込んでいったのである。この時の「満蒙は日本の生命線」は、侵略戦争の正当化と国内動員を一体化させる決定的なスローガンであった。
第3は、全面戦争突入(1937年)と国家総動員法(1938年)によって徴兵・徴用・言論統制など国内統制体制を飛躍的に強化したことである。言論出版集会結社取締法(1938年)、産業報国会の組織化(1939年)、そして大政翼賛会の結成(1940年)と社会・生活の全領域が戦時動員下に編成され、民主的権利はことごとく破壊された。侵略拡大が天皇制ファシズムを深め、深まったファシズムが侵略をさらに押し進める――これが1930年代の実相である。
第4に、1940年以降の枢軸陣営合流と対米英戦争への拡大が、国内ファシズムを不可逆なものにした。学徒出陣、女子挺身隊など勤労動員、メディアの完全統制、等々、対外的戦争拡大と国内独裁強化が渾然一体となり、末期には国民生活も精神もすべてが総動員され尽くした。侵略戦争とファシズム体制は車の両輪に他ならなかった。
高市政権の対中軍国主義の加速、スパイ防止法や国家情報局など治安弾圧体制化の同時進行は、異なる時代、異なる内外の力関係の下で、この天皇制ファシズムの歴史を新しい形態で復活させるものである。
[3]天皇制ファシズムによる中国大陸での残虐行為の段階的エスカレート
戦後の日本支配層は、日本が天皇制ファシズムであったことやその戦争犯罪をことごとく隠蔽し消し去ることに躍起となってきた。現在では、政権と財界だけでなく、メディアも学術界も、誰も日本がファシズム国家であったことを語らない。しかし中国など被侵略国・被害国は、天皇制ファシズムの暴虐を記憶し語り継ぎ、その復活に警鐘を鳴らしている。天皇制ファシズムの侵略と加害の歴史を直視し、その残虐行為を暴き出し、政府・支配層に反省と謝罪を迫っていくことは、日本の左翼・共産主義者と労働者・人民の責務である。
天皇制ファシズムの形成・発展と歩調を合わせるように、日本軍の暴虐は、初期の局地的殺戮から、大都市での組織的大虐殺、さらには制度化された大量虐殺へと段階的にはね上がった。中国の「14年抗戦」(1931~1945年)の犠牲者は、死者2100万人、死傷者は3500万人に達する。
日本軍の残虐行為が飛躍的にエスカレートし、犠牲者が激増したのは、中国侵略を全面化した1937年以降である。3500万人という死傷者の圧倒的多数はこの7年間に集中している。戦時暴力の性格と規模が一変したのだ。
1937年12月、南京占領以降6週間にわたり、組織的な大量虐殺・レイプ・略奪を引き起こし、30万人以上を殺害した(南京大虐殺)。南京だけではない。上海、天津、広州、徐州など主要都市を占領する度に降伏兵と民間人を大量虐殺した。農村部でもゲリラ掃討と称して住民虐殺を繰り返した。この時期には日本軍は毒ガス兵器を繰り返し使用し、重慶無差別爆撃では毒ガス弾も投入した。
さらに1940年以降、日本軍の残虐行為は制度的・計画的にエスカレートした。とくに中国共産党の抗日根拠地を根絶やしにするための掃討作戦=「三光作戦」(焼き尽くし・殺し尽くし・奪い尽くす)では270万人以上の住民が虐殺された。731部隊など生物・化学戦部隊による戦争犯罪が頂点に達したのもこの時期だ。中国全土で日本軍は実に1000回以上の化学兵器使用を行った。
1944年以降の戦争末期、中国人民の頑強な抗日戦争で消耗し、行き詰まった日本軍の暴虐行為は完全に歯止めがかからなくなった。最後の瞬間まで残虐性は衰えることなく、中国人民に筆舌に尽くしがたい犠牲を強いたのである。
[4]金融資本による戦争犯罪、強制動員・虐殺の苛烈化
天皇制ファシズムの侵略と暴虐は、日本軍の軍事作戦だけではなかった。財閥・民間企業=金融資本による中国人強制労働の搾取・虐待もまた侵略戦争の進行に伴ってエスカレートし、膨大な犠牲者を生みだした。中国人民の14年間の死者約2100万人のうち、直接の軍事行動での犠牲者はその半分、約1000万人である。驚くべきことに、残りの約1000万人は、金融資本=財閥企業(満鉄・三菱・三井・大倉・日産など)の強制労働によって殺害された。軍事占領した中国東北部と華北で、そして中国全土で、日本の大財閥・企業は、現地資源の略奪に奔走し、石炭・鉄鉱石・森林・インフラ建設などで膨大な利潤を貪ったが、その際、徴発・誘拐同然に集めた中国人労働者を過酷極まりない条件で酷使し、文字通り使い捨てた。
よく知られている中国人労働者の日本への強制連行は約4万人、そのうち死亡したのは約6830人(17・5%)だ。だが日本本土への強制連行は氷山の一角で、中国大陸内での強制連行は延べ約4000万人という途方もない数字である。炭鉱・鉱山・土木工事現場では食糧も医療も与えられず暴力的に酷使され、労働者は次々に斃れていった。わずか数ヶ月で労働者の半数が死に絶え、中国東北部(満州)では1年足らずで9割近くが死に追いやられた。規模も致死率も桁違いである。
撫順炭鉱(南満州鉄道→日産系)では、南京大虐殺に匹敵する約25万人が死亡した。北票炭鉱(満州炭鉱→日産系)では3万人以上、大同炭鉱6万人、燎源炭鉱8万人以上、等々、日本の金融資本による強制連行と経済的侵略の現場こそが最大級の大量虐殺の舞台となっていたのである。 強制連行・強制労働による殺戮もまた、侵略戦争とファシズム化の進展につれて制度化・大量化した。労働者酷使の本格化は日中全面戦争で人手不足・資源不足が深刻化した1940年代前半である。とくに1942~1943年に強制動員が制度化されて以後は、暴虐度はいっそう強まり、奴隷的酷使、死者の集団的投棄が常態化したのだ(「万人坑」)。
*日本による中国人強制労働と「万人坑」に関する講演(講師:青木茂 主催:在大阪中国総領事館)
https://www.youtube.com/watch?v=R8fh810e8zw
まさに天皇制ファシズムは、軍と金融資本が一体となった国家総動員体制であり、軍が人を殺害し、資本が人を使い潰すという二重の暴力構造で成り立っていた。しかし、人類史上例を見ない、財閥企業による強制連行・強制労働・大量虐殺は、ほとんど知らされず、その加害責任はほとんど問われることはなかった。第2次大戦後、ドイツではナチス協力企業・経営者は断罪されたが、中国大陸の戦争犯罪に手を染めた財閥・経営者の加害責任は一切不問に付されたのだ。それどころか、これら財閥は三菱・三井・住友などの金融グループとして再編復活し、今日では新たな「死の商人」=軍需産業の中核として対中戦争準備を進めているのだ。これら財界・金融資本の戦争犯罪を暴き、加害責任を追及することが不可欠である。
[5]戦争責任・戦後責任の徹底追及を――対中戦争阻止と日中平和友好は日本人民の責務
現在の日中対立激化で問題になっているのは、天皇制日本の侵略戦争と戦争犯罪だけではない。敗戦国日本が、今日に至るまで、加害責任・戦争犯罪を認めず、反省も謝罪もしてこなかったという「敗戦国問題」、未清算の諸問題が一挙に表面化し、政治焦点化している。天皇免責・戦犯復帰・対米従属の前線基地化という「半端な清算」が、今日の対中軍国主義と歴史修正主義の土台を作った。
第1に、天皇裕仁の免罪と象徴化によって、侵略戦争の責任が不問に付された。極東国際軍事裁判(東京裁判)は多くのA級戦犯を処罰したが、侵略戦争遂行の最高司令官である天皇裕仁は訴追されることはなかった。「無条件降伏」は徹底的に骨抜きにされたのだ。しかも裕仁の「終戦詔書」で、「敗戦」でなく「終戦」へと言い換えられ、日本の戦争は太平洋戦争=米英戦の4年間に限定された。この時から、中国侵略戦争を度外視する構図が作り出された。
第2に、戦犯の処罰の不徹底と加害者が再び支配層へと復活したことだ。戦犯が生き残り戦後の日本支配層として復帰した。A級戦犯だった岸信介は首相になり日米安保改定を強行した。731部隊幹部(石井四郎ら)は起訴を免れ、米軍に生物兵器研究の成果を引き渡した。等々。中国をはじめアジアの被侵略国、被害国から見れば、戦犯処罰が最初から半端で止まっていたと指弾するのは当然である。
第3に、侵略戦争の加害国が米国の前哨基地として再編成された。「サンフランシスコ体制」だ。サンフランシスコ講和条約(1951年9月)は、中国や朝鮮をはじめ最大の被害国を除外した一方的な「平和条約」であった。同時に日米安保条約が結ばれ、日本は対ソ・対中包囲網の「前線基地」と位置付けられ、日本列島は米軍基地網の中核として再編された。「加害国の戦後処理」は、中国・アジア人民ではなく、米帝の世界覇権のために処理されたのだ。
第4に、これら「不完全な清算」が、侵略戦争を否定・歪曲する歴史修正主義を生み出す源泉となり、今日の対中軍国主義とそのイデオロギー的土台をつくり出した。侵略戦争の否定、南京大虐殺・731部隊・日本軍「慰安婦」など重大な戦争犯罪の否定、教科書改悪、首相・閣僚の靖国神社参拝、等々。
要するに、「敗戦国処理」で天皇制軍国主義は徹底的に解体されることなく、実際には天皇の免責、旧支配層の復活、米国による「反共の砦」としての再編によって中途半端なままで止まったのである。いまそのツケが高市発言によって一挙に呼び覚まされ、「台湾有事」策動の形で爆発しつつある。抗日戦争勝利・世界反ファシズム戦争勝利から80年を経た現在もなお、反ファシズム戦争は終わっていないのだ。
しかし、日本の反戦運動・人民運動の中から、高市発言撤回と併せて、日本の加害の歴史を正面から受けとめ知らせていこうという動き、新たな侵略戦争反対と日中平和友好を結びつけて訴える動きが、少しずつ広がり始めている。困難な道だが、高市政権の対中軍国主義とネオファシズム化を押しとどめていくことは十分に可能である。
侵略と加害の歴史の抹殺・忘却に反撃しよう。天皇制ファシズムによる中国侵略の歴史、戦後の戦争責任否定の歴史を徹底的に暴き出そう。反戦運動、加害責任追及、歴史修正主義反対、教科書運動、「日の丸・君が代」強制反対運動、日中平和友好の取り組みを強めよう。
2025年12月6日
『コミュニスト・デモクラット』編集局
