高市首相の「台湾有事は日本有事」発言に対し、中国は「核心的利益」に公然と挑戦するものだと厳しく批判した。発言撤回まで手を緩めない断固とした姿勢だ。中国が主張する、台湾問題が「核心的利益の中の核心」とはどういうことか?中国にとってそれは何故、絶対に妥協することができない一線なのか?
そこには二重の意味がある。第1に、台湾が中華人民共和国の不可分の一部であるという「一つの中国」原則である。国家主権と領土の一体性に関わる原則問題だということだ。第2は、台湾統一(=両岸統一)による祖国完全統一こそが、中国人民の歴史的悲願だということだ。それは、天皇制日本による50年間に及ぶ植民地支配の歴史、さらに1840年アヘン戦争以降の西欧列強による中国の半植民地化と屈辱の歴史(「百年屈辱」)に最終的に終止符を打つために残された最後の課題なのである。
[1]台湾は中国の一部――「一つの中国」は戦後秩序の基本原則
「一つの中国」原則は、中国抗日戦争と世界反ファシズム戦争の勝利が獲得した「戦後秩序」、すなわち日本の敗戦処理を規定した一連の国際文書と日中間の外交的合意によって裏付けされた戦後秩序の根幹として位置づけられたものだ。中国にとって台湾の地位は、①古来から中国領土、②カイロ宣言、③ポツダム宣言第8項、④日本のポツダム宣言受諾と「台湾光復」、⑤1949年の中華人民共和国の成立、⑥国連総会第2758号決議、そして⑦日中共同声明と平和友好条約という「7重の根拠で確定されたもの」(12月8日・王毅外相)である。だからこそ、この原則に対するいかなる挑戦も、国家主権への侵害であり、断固として拒否する姿勢を貫いているのだ。
戦後国際秩序の原点――台湾返還を確定したカイロ宣言とポツダム宣言
天皇制日本が奪取した台湾などの領土処理を明確に規定したのは、中米英3ヵ国によるカイロ宣言(1943年12月1日)である。1895年の下関条約による台湾割譲が、侵略戦争による不等な略奪(盗取)であったことを公式に認め、台湾の法的地位が「未定」などではなく、明確に中国(当時は中華民国)に帰属することを確定した。
このカイロ宣言の方針は、3カ国にソ連も加わったポツダム宣言(1945年7月26日)において継承され確定した。ポツダム宣言第8条は、「カイロ宣言の条項は履行されるべき」と明記することで台湾の中国返還を再確認した。日本政府は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、9月12日の降伏文書において「ポツダム宣言の条項を誠実に履行すること」を連合国と全世界に誓約したのである。したがって、これは戦勝国による一方的な対日処分ではなく、日本自身が受諾した国際法上の義務である。そして同年10月25日、台北における日本軍降伏式において「台湾光復」が宣言され、中国による台湾の主権回復が完了した。
中国にとって、台湾が中国の一部であるという確固とした事実は、戦後国際秩序の根幹をなす原点であり、これを否定することは戦勝国としての中国を否定し、侵略戦争とファシズムに対する勝利の歴史を覆すことなのである。
サンフランシスコ条約を根拠とする「台湾地位未定論」は誤り
高市首相をはじめ日本の極右・歴史修正主義者が、台湾軍事介入を正当化する論拠として持ち出すのが台湾の地位や主権は定まっていないという「台湾地位未定論」だ。高市首相自身、11月26日の党首討論で、「サンフランシスコ平和条約で(日本は)すべての権限を放棄しており、台湾の法的地位を認定する立場にない」と「台湾地位未定論」を振りまき、「一つの中国」を否定した。
だがこの「台湾地位未定論」は、日本がその遵守を誓約したカイロ・ポツダム宣言を無視した詭弁だ。「一つの中国」を否定するためのこじつけである。そもそもサンフランシスコ講和会議は、米国を中心とする西側諸国が、日本を冷戦戦略に取り込むために、戦勝同盟国を排除して行われた。対日戦争の主要な戦勝国であり、台湾領有権を主張する当事者である中国を排除して押しつけた単独・片面講和である。それは、中米英ソ等26カ国が署名した敵国との単独講和を禁じた「連合国共同宣言」(1942年)に違反し、カイロ宣言・ポツダム宣言にも違反する。自国の領土主権に関わる事項について、自国の参加と同意なしに決定された条約が無効であるという中国の主張は全く正当なものだ。
国連でも、総会第2758号決議(1971年)で、「中華人民共和国政府の代表が国連における中国の唯一の合法的な代表であり、中華人民共和国が国連安全保障理事会の5常任理事国の1つであることを承認する」と確認し、台湾は中国の省だという扱いだ。したがって、高市首相らの「台湾地位未定論」は、中国の主権侵害であると同時に、戦後の国際秩序の基本原則を踏みにじる敵対行為に他ならない。
日中共同声明と基本4文書による「一つの中国」の再三の確認
日本政府は、日中間の4つの基本文書(1972年国交正常化時の日中共同声明、1978年日中平和友好条約、1998年日中共同宣言、2008年日中共同声明)で、「一つの中国」原則を繰り返し確認してきた。その遵守は日本の国際法上の義務である。日中共同声明(1972年)第3項にこう明記している――「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」と。この「ポツダム宣言の遵守」こそ、日本が台湾を中国領土と認めた決定的な証拠である。中国はこれを前提に、国交回復に際して「日本に対する戦争賠償の(国家としての)請求権の放棄」を確認した。
*日本の極右や歴史修正主義者は、この「十分理解し、尊重する」とは中国の主張を承認したものではないとの解釈を垂れ流している。だが台湾を中国の一部と認めない言動、「台湾有事は存立危機」といって軍事介入を唱える態度は、「理解と尊重」精神を踏みにじるものであり、日中共同声明への背信行為であることは明らかだろう。
以来、「一つの中国」政策の堅持と「二つの中国」を支持しないことは、日本政府の一貫した立場であった。安倍首相でさえ第1次政権の2006年10月訪中時に温家宝首相との会談で、「一つの中国の政策を堅持し、『二つの中国』『一つの中国、一つの台湾』を行わず、『台湾独立』を支持しない」と表明している。高市発言は、従来の日本政府の公式立場の公然たる否定であり、50年以上にわたって積み上げられてきた両国関係の政治的基盤そのものを一気に崩壊させてしまうものなのである。
[2]50年間に及ぶ台湾植民地支配の暴虐の歴史
高市発言について、ブルジョア議会もメディアも全く問題にせず意図的に無視し欠落させているのが、天皇制日本による50年間におよぶ台湾植民地支配、その暴虐の限りを尽くしてきた歴史である。
抵抗運動への徹底的な弾圧と大虐殺、「皇民化」による民族抹殺
台湾は、1895年から日本の敗戦までの50年間は日本帝国主義の植民地として占領統治された。それは中国大陸への侵略戦争と同様、台湾人民に想像を絶する被害を与え苦難を強いた。
日本の植民地支配は、血で血を洗う征服戦争から始まった。1895年の日本軍上陸に対し、台湾住民は「台湾民主国」を樹立し、あるいは義勇軍を組織して徹底的に抵抗した(「乙未戦争」)。これに対し日本軍は近衛師団を投入し、徹底的な掃討作戦で無差別殺戮を行った。抵抗者を「匪賊」として即時処刑する「匪徒刑罰令」を制定し監視社会で締め上げた。台湾先住民(セデック族)の蜂起に対し大虐殺で応え(1930年霧社事件)、毒ガス兵器までも使った残虐な殲滅戦を展開した。
1937年の全面侵略開始以降は、台湾に対して「皇民化運動」を推し進めた。日本語の強制、日本名への改姓名、神社信仰まで強制した。日本語が堪能な台湾人を通訳・スパイとして中国侵略戦争の最前線に送り込み、末期には20万人を戦場に送り込んだ。多くの台湾人女性が「慰安婦」として性奴隷化された。日本の台湾統治の50年間で、実に6人に1人の台湾人が命を落としたと言われる。これらはまさに、民族抹殺のジェノサイドであった。
抗日戦争の勝利と「台湾光復」
中国人民にとって、1945年の天皇制日本の打倒と「台湾光復」は、1931年以降の14年間、1894年以降半世紀に及び日本帝国主義との死闘によって勝ち取った正義の回復であった。中国人民は3500万人の死傷者という筆舌に尽くしがたい犠牲を払って抗日戦争を戦い抜き、世界反ファシズム戦争の東方主戦場としての抗日戦争勝利が日本のポツダム宣言受諾による無条件降伏を引き出し、その結果として台湾を祖国に取り戻したのだ。台湾復帰は、侵略者が略奪したものをすべて返還させるというカイロ宣言の精神の実現であり、「百年屈辱」に終止符を打つ歴史的瞬間であった。
だが、日本の植民地支配は終焉したが、米軍の保護を受けて台湾に敗走した国民党・蒋介石が、台湾の政治経済を掌握し、1971年の国連決議以降も1987年まで40年近くに及ぶ戒厳令体制による独裁支配が続いた。
中国政府は、米日帝国主義を初めとする「台湾独立」の煽動と内政干渉に抗しながら、76年間にわたって「一つの中国」への台湾の平和的統一の道を進めてきた。両岸統一は、中華人民共和国建国以降に残された最大の課題であり、中国人民の長年の歴史的悲願である。これに対しかつての侵略者日本が立ちはだかることは最大の侮辱であり、断じて容認できないことだ。
台湾の平和的統一を再び内乱と戦争の混乱へと導く高市発言を撤回させること、高市軍国主義を阻止することは、日本の左翼・共産主義者、反戦運動と人民運動の責務である。
2025年12月8日
『コミュニスト・デモクラット』編集局
