
南京大虐殺は、南京に押し寄せた日本軍の許しがたい戦争犯罪である。しかし、日本軍の蛮行を支えたのは、日本国内での兵器生産と戦意高揚の世論である。現在、対中戦争準備が進む中で、戦場での軍事行動と銃後の生活が切っても切り離すことができないことを忘れてはならない。そのことを南京大虐殺時の大阪の状況から考えていきたい。
南京大虐殺は大阪砲兵工廠の存在によって実行された
日本軍は、中国軍との激しい戦闘と南京大虐殺の過程の中で、膨大な陸上兵器を使い中国軍から一般市民まで次々と踏みにじっていった。この南京大虐殺を軍需物資、特に兵器の供給面から支えたのが大阪砲兵工廠であった。1937年10月、陸軍造兵工廠長官が作成した「支那事変業務実施報告」によると、陸軍は兵器代として大阪砲兵工廠に兵器支払額全体の41.6%を支払っていたことが記載されている。大阪砲兵工廠が陸軍の武器、弾薬製造に極めて大きな役割を果たしていたのである。
大阪砲兵工廠は、現在の大阪城を中心に城東区全体に広がる陸軍直属の日本最大の軍需工場であった。日本軍の南京侵攻に不可欠であった大砲と弾薬は、その多くが大阪で製造された。特に火砲(野山砲、対戦車砲、歩兵砲、高射砲、榴弾砲)の全て、地上弾薬の約50%が大阪砲兵工廠で製造され、大阪港や神戸港から中国大陸に運ばれていった。大阪砲兵工廠は、1936年の陸軍「軍需整備5カ年計画」の下に拡張が決定され、37年日中全面戦争開始直後には3カ所から7カ所に製造所が拡大され、砲弾、野戦級の焼夷弾、照明弾の増産に全力をあげた。これによって日本全体の兵器生産の36%を担う、名実ともに日本最大の軍需工場にのし上がった。
南京大虐殺によって大阪の産業は飛躍的に「発展」した
大阪砲兵工廠の兵器製造は、その77%を大阪民間企業に外注していた。直接的に武器を製造・完成させていた大工場(住友金属、日本鋼管、日立造船、松下金属等々)からその下に繋がり武器弾薬等の部品を製造していた中小企業まで、ほとんどの大阪の企業が大阪砲兵工廠を頂点に、軍需工業地帯として系列下されていった。
その結果、日本が日中全面戦争へと戦争を拡大し、中国人民を殺し、家屋を破壊し尽くし、略奪を欲しいままにしていた時、大阪産業界には特需が発生し「潤い」「発展」した。まさに戦後の朝鮮特需、ベトナム特需の先例となった「南京大虐殺特需」であった。
大阪市で4人に1人が参加した「南京陥落」提灯行列
これらの物的利益を背景にして、南京占領時には大阪でも異様な熱狂、狂気が支配した。南京占領1週間前の12月7日には、すでにそごう、松坂屋、三越、阪急など大手百貨店で「南京陥落祝賀アドバルーン」とネオンサインが現れた。10日にはマスコミによって「南京陥落」報道が始まり、11日には祝賀行事のトップを切って大阪市内全小学校児童37万人が「日の丸」の小旗を持ち、市内を練り歩いた。13日以降は、全市をあげて祝賀大会と提灯行列が行われた。市内全中学校生徒による祝賀大会(約1万1000人)、各区役所主催による祝賀大会(約25万人)、市職員による祝賀大会(約7000人)等々、11日から14日までに大阪市内だけで、のべ約70万人、人口の4分の1が参加したことになる。これを見るだけでも学校が主導して子どもを動員し、「祝賀ムード」を作り上げたことがわかる。教育の戦争責任をこの面からも自覚したい。
これまで南京大虐殺といえば、中国大陸での日本軍の蛮行に目を向けがちであった。しかし、今回中国大陸での日本軍の蛮行を物質的に支え、後方支援を行っていたのが大阪砲兵工廠と大阪産業界全体であり、南京占領時には政府・軍部と一体となって人民大衆が狂気乱舞したことがわかった。中国大陸の日本軍と銃後の人々は一体であった。戦後、南京大虐殺の事実が中国の訴えによって明らかになっているにもかかわらず、当時の日本軍関係者だけでなく銃後の人々までが虐殺に無関心を決め込んだ。現在の日本の対中戦争準備でも、自衛隊の戦争準備と国内での軍需産業の拡大等それをささえる物的基盤を明らかにし、対中戦争に反対する姿勢を強めたいと思った。
(教員G)