南京・上海ツアー報告
日本の侵略の歴史を知り現代中国を垣間みる旅

 中国歴史認識ツアーは、昨秋の北京・瀋陽編に続き、第二弾は初夏の南京・上海を訪ねた。南京大虐殺記念館の他、市内各所にある記念碑をまわり、中国全土の「慰安婦」・「慰安所」の状況が展示されている南京「慰安所」跡陳列館にも足を運んだ。上海では第二次上海事変の史跡である四行倉庫を訪ねた。日本の侵略の歴史を心に刻むとともに、発展著しい現代中国を垣間みる旅にもなった。

(113号 北京・瀋陽編)日本の中国侵略を学ぶフィールドワーク旧満州国による侵略の歴史を学び虐殺の現場を訪ねる | コミュニスト・デモクラット

1.南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館)

(1)予約が殺到してとれない

 入場無料だが予約が必要。WeChat(微信)というSNSアプリを導入すれば日本からも予約できるのだが、なかなかとれない。3連休の中日ということもあり予約が殺到していて開始1分もたたずに満杯になってしまうのだ。この種の博物館が予約殺到というのは日本では考えられない。予約期間中に記念館側が開館時間を延長して枠を増やしたのだが、私たちはそれでも一般枠の予約はできず、高齢者とその付き添いの優先枠を確保しただけだった。

 当日は朝小雨模様だったが、地下鉄の出口から記念館のゲートまで300mほどの距離に屋根付きの簡易通路が設置されていた。私たちは開館30分前の8時には到着していたので、ほぼ先頭に並ぶことができた。チケットはなく、予約のときに番号を入力したパスポートを提示すると自動でゲートが開くシステム。予約できなかった者はいざとなったら泣きついて粘ろうと心の準備をしていたが、職員に予約できなかったと告げるとすぐに隣の建物でパスポート番号を入力してもらい、めでたくゲートが開いた。込む時期は早めに行くことをお勧めする。

(2)巨大な彫像の列

 ゲートを通過しても本館の入り口まで5分ほどの距離がある。その間に巨大な彫像と記念碑が並ぶ。広い敷地の中に23の彫像と8つの壁、17の記念碑があるという。巨大な壁には300000の数字。東京裁判で明らかになった虐殺された人数だ。巨大彫像は、息子に手を引かれて逃げるおばあさんの像(写真)が印象的だが、後でわかったが、展示にもあった当時の写真からとったものだった。

 献花用の菊の花をここと本館を出たところで受け取ることができる。QRコードをWeChatで読み取ることにより、簡単にカンパを送ることができる。献花台は何箇所かあるが、団体用の献花台には、日本の平和使節団などの団体による折り鶴が並んでいた。日本人も多く訪れているという。展示の説明にも日本語があった。写真撮影は可だが動画は不可といわれた。

 本館を2時間ほどかけて見学、中も混んでいたのだが、本館を出たところで入口をみると長蛇の列ができていて順番を待っていた。中国人民の関心の高さを知ることとなった。

(3)南京事件に至る経過…展示の記載より

●九一八事変(満州事変)…1931年9月18日に日本関東軍が中国東北部の奉天(現・瀋陽)を突然攻撃し、武力による東北地方占領を開始した。

●七七事変(盧溝橋事件)…1937年7月7日に盧溝橋で日本軍の謀略により中国軍と衝突。日本帝国主義による全面的な中国侵略戦争の開始を告げるとともに、中国全民族抗戦(国共合作)の始まりを示し、世界反ファシズム戦争の東方主戦場が開かれた。

●八一三事変(第二次上海事変)…1937年8月13日、日本軍は上海に侵攻。中国は強力な軍隊を結集して激戦を展開、三ヶ月で中国を滅ぼす「三月亡華」計画を粉砕した。しかし日本軍は数次にわたって増兵して攻め、11月12日に陥落した。

 上海陥落後、中国の首都南京は日本軍の重点的侵攻目標となった。1937年11月、国民党政府は「短期固守」方針を確立し、約15万の兵力を南京防衛に投入した。12月1日、日本大本営陸軍部は南京侵攻の作戦命令を下達、中国守備軍は装備が劣り、編制も不備な状況のもとで、日本軍と命がけの戦闘を展開したが、12月13日、南京は陥落した。

(4)日本軍による暴行・虐殺…展示の記載より

 日本軍は南京占領後、公然と国際公約に違反し、捕虜の大規模な捜索、逮捕と虐殺を行い、身に寸鉄も帯びない平民を任意に虐殺した。日本軍は年齢、職業、身分を問わず、女性に幅広く強姦、輪姦の暴行を行い、南京陥落後の最初の1カ月間に、城内で2万件近い強姦事件が発生した。また日本軍は随所で公私の財産を略奪し、放火、破壊をほしいままにし、南京城南の最も繁華な商業地区と人口の密集した住宅街が最も深刻な被害に遭い、主要な街道はほとんど全部廃墟と化した。

(5)在留外国人の救援活動…展示の記載より

 日本軍の暴行を目の当たりにして、南京残留の外国人の一部は生命の危険を冒して、あらゆる方法で難民を救助した。彼らの人道主義精神と何ものも恐れない義挙を、人々は永遠に忘れることはできない。日本軍の南京占領後、ジョン・ラーベはドイツ人という特殊な身分を利用し、全力を挙げて難民を救援した。自宅を難民収容所とし600余名の難民を保護した。

 1892年に設立された南京で最も古く、規模も最大の鼓楼病院に5人の米国国籍の医師、看護師と中国人スタッフ20人余りが病院にとどまり、難民の手当てに尽くした。

(6)全世界が知っている事実と日本の隠蔽…展示の記載より

 日本軍が大虐殺を行った事実について、国際社会の主流メディアの記者、宣教師、外交官は「第三者」の視点から継続的に報道・暴露していたが、日本の当局は「平和な南京」と虚偽宣伝を行い、犯罪行為を隠蔽した。当時中国のメディアも続々と報道し、南京脱出に成功した大虐殺の生存者も自分の体験や見聞きしたことに基づいて、日本軍の南京における暴行を証言・暴露した。

 南京陥落後、100人余の日本人記者、作家、評論家が南京に来て、「ペン部隊」と呼ばれていた。日本の戦時報道統制下では、日本軍の南京における暴行の報道と写真には「不許可」の判が押され、公開発表は禁止され、日本軍の罪悪的な行状は隠ぺいされた。

(7)大虐殺後の南京…展示の記載より

 日本軍は南京で恣意的に虐殺し、累々たる死体と無数の破砕された家庭を残した。日本軍と日本の傀儡政権の統治下で、生き残った南京市民は拠り所なく悲痛の中で必死にあがいていた。

 1937年12月下旬~1938年11月まで、慈善団体および傀儡政権と南京市民は、ともに犠牲者の死体埋葬に参加した。

 家は破壊され、財産は略奪され、災難後生き残った市民は、生活を続けるすべがなかった。多くの家庭は青壮年の労働力を失い、老人、幼児、女性、乳幼児が路頭に迷い、境遇はさらに悲惨を極めた。

(8)戦後の調査と裁判…展示の記載より

 1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言、9月2日、日本は投降文書に調印した。これは中国人民の抗日戦争と世界反ファシスト戦争の勝利達成を象徴していた。戦後、極東国際軍事裁判所と戦犯裁判の中国軍事法廷は、ともに南京大虐殺事件に対して調査と特別審理を行い、正義の判決を下し、法的な結論を出した。松井石根、谷寿夫などの日本人戦犯は法的な厳罰を処された。朝香宮鳩彦(皇族)、柳川平助、中島今朝吾ら日本軍指揮官は正義の裁判を逃れた。

 抗日戦争中から、国民政府は関係機関を設立し、日本軍の南京における犯罪行為に対する初歩的な調査を実施した。抗戦勝利後、犯罪行為調査委員会などが特別調査を実施し、東京裁判、南京裁判のために大量の証拠を提供した。極東国際軍事裁判所が東京に設置され、東条英機ら28人のA級戦犯に対する裁判が行われた。元華中方面軍司令官松井石根を絞首刑にした。1946年2月15日、南京軍事法廷がB、C級戦犯に対する裁判を行った。

(9)犠牲者の埋葬地に立つ記念館

 記念館は、城壁で囲われた中心市街地から少し離れた場所に1985年に建てられ、改築を経て成長を遂げた。ここは虐殺現場であると同時に集団墓地になった場所で、敷地内に遺骨が半分掘りだされた状態でそのまま展示されている。本館にも地下の埋葬地を上から見学する場所がある。遺骨の撮影は禁止されている。

 本館の出口付近の売店にはみやげものに交じって南京大虐殺に関する学校で使う副読本が売られていた。小、中、高校用の3種類、小学校から教えていることに驚いたが、1冊10元、200円ほどの値段にも驚いた。これなら誰でも気軽に購入できる。高校用をWeChatで購入した。

 本館を出て、彫像や記念碑群を過ぎると、別の建物に誘導される。ここも埋葬地で、発掘された遺骨を見学する場所だった。学校の体育館ほどの広さで規模が大きい。虐殺という消すことのできない事実に圧倒され、身に突き刺さる気がした。虐殺を否定する人たちはここに来い、それ以上に、日本の子どもたちにここで学んでほしいと感じた。

2.南京大虐殺に関する記念碑めぐり

 漢中門の外側に城壁に沿って流れる秦淮河の河原が千人余りの虐殺の現場となった。橋のたもとに記念碑がある。記念館の同じ場所の展示(写真)を思い起こしながら手を合わせた。続いて長江の岸辺に移動、中山埠頭、下関、草鞋峡と、長江沿いの万単位の虐殺の現場に記念碑が並ぶ。

 地下鉄で移動するつもりが、まだ建設中とわかりタクシーに変更。DiDiというタクシーアプリに目的地を入力、タクシーを呼び出して目的地まで運んで決済までしてくれる。現金なしははじめ戸惑うけど慣れると圧倒的に便利。飲食店の注文も支払いスマホ。WeChatとDiDiだけでもなんとかなる。スマホの電池切れに注意。

3.南京「慰安所」跡陳列館(南京利済巷慰安所旧址陳列館)

 南京市街のど真ん中。南京に侵略し暴虐の限りを尽くした当時の日本軍兵士、土地勘のないものにとっても分かりやすい場所だったであろう。元々は国民党の少将が建築した2階建て8棟の建物だった。1937年末、日本軍が南京占領後、そのうちの2棟を「東雲慰安所」「故郷楼慰安所」として改造した。南京人民政府がここを日本軍「慰安所」の展示館として修繕、展示公開したのは比較的新しく、2015年12月である。

 展示館に入るとすぐに前言、「中国は日本軍『慰安婦』制度の最大の被害国であり、中国で設置された慰安所が最も多く、規模が最も大きい」。こんな基本的なことすら知らなかった。「20数万の女性が強制的に日本軍の性奴隷にされた」と説明は続く。

 陳列館の最大の特徴は、実際に「慰安所」として使われていた場所で当時の建物を改修して使用していることだ。小部屋に分かれた建物、小部屋を意識的に残して展示していることで、当時の雰囲気が自然と伝わってくる。

 第二の特徴は、当時使われていた性病検査器具や堕胎に使われた医療器具などが展示されており、ここで行われていたことの生々しさが、それらのモノから直接想像できることだ。展示の冒頭近くでこれらのモノを見ることで、頭をガンと叩かれるようなショックを受ける。「慰安所」を管理統括していた司令官の居室を再現した小部屋には大きな板に墨書で慰安所規定が書かれ、開放時間、料金まで記載されている。壁の反対側には木札がぶら下げられており「正子」「秋子」などと記載されている。ここが大日本帝国軍の組織的な施設として運営されていたことを示す幾多の文献資料よりも分かり易く説得力に満ちている。三畳ほどの板張りの何もない小部屋がそのまま、説明もなく残されている。

 更に特徴を挙げれば、展示の中に芸術的表現を取り入れていることだ。展示の最後に「慰安婦」の等身大より少し大きめの胸像がある。上部に「尽きない涙の流れ」とのタイトル、下部には「どうぞ彼女らの涙を拭いてください」との説明書き。近寄ってよく見ると目から涙が。頬を伝わり顎からポトリポトリとしたたり落ちている。左下に純白のタオルが綺麗に重ねて置いてある。タオルでそっと目元を触れた。濡れたタオルで目元から、頬、顎まで拭った。タオルを通して、彼女の頬や顎、目元のごつごつした皺の感覚が伝わってくる。彼女の苦難に満ちた人生とその呻吟が胸に重く突き刺さってきた。

 入口には小学生高学年とみられる子連れの若い家族が並んでいた。館内にも、若い世代のカップルや男性グループ、女性グループ、個人で訪れたとみられる男性、女性。とにかく、若い世代がほとんどで、熱心に見ていたことを紹介したい。かれらは歴史をしっかり学んでいる。河野洋平官房長官(当時)の謝罪談話、その後、安倍晋三首相在職中に行った日本軍の組織的関与の否定発言。橋下徹大阪市長が在職時に「規律維持に必要だった」との声明を出したこと等をしっかり学んでいる。日本の近現代史をまともに教えられない日本人。中国の若者が歴史歪曲に抗議してデモを繰り返した当時、日本のメディアは一斉に「反日デモ」と紹介した。これを何の疑いもなく受け入れている日本社会。改めて歴史の真実を学ぶこと、教えることの重要さを感じた。

4.現代の社会主義中国に感じたこと

 中国の今を知ろうと街へ。欧州とは違いスリやひったくりの危険を感ずることはない。安全な所というのが実感。ホームレスらしき人も見かけない。夜の繁華街でも路上飲みの姿はなく、危険は全く感じない。逆に人々の善良さを感じた。

 大きな街の中に濃い緑がそこかしこにある。バスはどれも電気で走る。看板が少ない。街がきれい。すっきりしている。繁華街は店が軒を連ねて洒落ている。個性的なショーウインドウや飾りつけ。しかし一般商品やメーカの溢れかえるような看板・宣伝はなし。

 南京から上海へ移動する新幹線の寝台コンパートメントで同室となった30代くらいの労働者風の女性。西安から夜通し乗って来たという。会話アプリで質問すると、「中国は今、非常に速いスピードで発展しています」と自信にみちた回答。郊外に出ると窓からは田畑や植林の緑の中に高層住宅街が点在する風景。南京夫子廟や上海外灘の華やかな夜景にも中国の自信が表れているように感じた。

(S)

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