狭山事件えん罪被害者・石川一雄さんが3月11日午後10時30分、狭山市内の病院で亡くなった。えん罪を訴え続けた86歳の人生であった。2、3年前までジョギングや2万歩を自分に課して再審闘争を闘い続けていた姿が今も眼に焼き付いている。しかしこの1年ほどはめっきり弱っていた。心底、無念の死である。
(部落解放同盟員 K)
狭山事件は部落差別を利用した権力犯罪である
第1に、このえん罪事件の引き金は埼玉県警のかつてない失態であった。
1963年5月1日、当時高校1年生のNさんが下校後に行方不明となった。その夜、身代金20万円を要求する脅迫状と自転車が自宅に届けられた。埼玉県警は40人の警官を張り込ませたが犯人逮捕に失敗した。県警は3日に現地に特別捜査本部を設置し、大々的な山狩捜査などを実施したが、Nさんは死体で発見された。
警察の失態は、約1ヶ月前の3月末にも東京台東区で生じていた。「吉展ちゃん事件」である。ここでも警視庁は犯人を取り逃しており、マスコミは警察の失態を非難した。5月4日には当時の警察庁長官が辞表を提出した。国会でも追及され、国家公安委員長は記者会見で「何としても生きた犯人をつかまえる」と発言していた。
第2は、マスコミ、警察、そして被害者宅を含む地域住民の被差別部落に対する根強い差別意識である。
マスコミ(特に新聞)の当時の報道はひどいもので、被差別部落を悪と犯罪の温床のように報じ、最初から石川さんを犯人と決めつけていた。

被害者周辺の地域住民は、当初は警察に対して非協力的であったが被差別部落への集中見込み捜査が始まると協力的になった、と言われている。
このようにして、被差別部落民を犯人視する声がしだいに広がっていった。
警察は、被害者の自宅に近い、被差別部落出身者が経営する養豚場の関係者に捜査を集中した。その結果、事件当日のアリバイを証明できなかった「石川一雄さん」に狙いをつけ、5月23日に別件で逮捕した。しかし石川さんは、狭山警察署での取り調べに対し、「Nさん殺しには全く関係ない」と無実を訴え続けた。
第3は、埼玉県警による石川さんの「無知」を利用した卑劣きわまりない自白誘導策である。
徹底的な取り調べに対し石川さんは、弁護士抜きでほぼ1ヶ月間否認を貫いた。このこと自体、驚異的なことである。しかし「認めれば10年で出られるようにしてやる。認めなければ兄を逮捕する」といった嘘の約束や脅しによって、とうとう虚偽の自白をはじめてしまった。そして、殺人事件の犯人として起訴され、9月に浦和地裁で第1審第1回公判が開かれる。起訴事実を認めたため、翌3月には死刑判決が出される。この時にいたっても石川さんは警察や検察を信頼し、その嘘を信じていた。石川さんがNさんの殺害を否認し、無罪を訴えたのは事件発生後1年4ヶ月も経った1964年9月の東京高裁公判からであった。
第4に、公判で検察側が提出した「証拠」は捏造したものばかりである。
真犯人が残した唯一の物証は「脅迫状」であった。それは当時としては珍しい横書きでしかも強調すべきところは大きく書いている。漢字もわざと間違うなど稚拙さを装っているが、書きなれた者が書いていることは歴然である。
石川さんは横書きの上申書の見本を見せられて、横書きで書いているが、字を書きなれていない。自分の名前も間違っている。当時の石川さんにはこの「脅迫状」は書けない。
警察・検察による捏造3大物証が、「万年筆」「腕時計」「カバン」である。
被害者Nさんの「万年筆」は石川一雄さん宅から見つかったとされ、不当逮捕につながった。しかし、この「万年筆」は2回の徹底した家宅捜査でも見つからなかったものが、3回目に、唐突に捜査官の指摘で鴨居から見つかったのである。しかも兄に素手でつかませるという不自然な取り扱い方であった(大切な証拠を捜査員以外の者に素手で触らせるのは、指紋の付着もあり非常識だ)。万年筆のインクの色の違いは当初から問題になっていたが、最近、蛍光X線検査によって科学的にもNさんのものとは別物であることが証明され、再審の最大の焦点となっている。
被害者の「腕時計」についても証拠として出されたが、形もシリアルナンバーも違うまったくの別物であった。
「カバン」も、被害者の家族が革製にみえるレザーだと言っているのに、証拠品は本革製というでたらめさだ。全くのでっち上げだ。
石川さんは部落差別の結果、非識字であった


石川一雄さんは、1939年1月14日に埼玉県狭山市の被差別部落で生まれた。家庭は極貧であった。8畳一間に7人家族で生活し、「鉛筆だって1本も持っていませんでした。けしゴムも下敷きも何もなかった」と述べている。小学校もほとんど出席していない。非識字であり、勤め先も転々としていた。
石川さんが教育から疎外されたこと、文字を奪われてきたことは個人の問題ではない。狭山事件は決して石川一雄さん一人の問題ではない。被差別部落全体の問題なのだ。
狭山差別裁判糾弾闘争は部落解放運動の推進力の中軸となった
狭山事件は被差別部落大衆の怒りを爆発させた。石川さんが逮捕されると、地元の自治会長は部落解放同盟埼玉県連に救援を依頼した。部落解放同盟埼玉県連委員長らは家族を励ますとともに、県警捜査本部に見込み捜査ではないかと抗議した。あわせてマスコミに対しても「被差別部落を犯罪の温床であるかのように報道した」と抗議した。解放同盟の中央機関紙は万年筆など物証の疑問とともに、石川さんの不当逮捕を部落差別の問題として報じた。
1964年9月、東京高裁第2審第1回公判で、石川さんははじめて「Nさん殺しを否認、無実」を訴えた。
部落解放同盟は、第20回全国大会で埼玉県連が提出した「狭山事件の公正裁判を要求する決議」を採択した。以後全国的な支援闘争を開始した。労働組合・民主団体も共闘し、1974年9月26日の最終弁論・被告人最終意見陳述の日には、東京日比谷公園に11万人が結集した。しかし、東京高裁寺尾裁判長は「有罪・無期懲役」との不当判決を言い渡した。石川さんは即日上告した。1977年8月16日無期懲役刑が確定すると、再審闘争が開始された。
部落解放同盟は狭山闘争を部落解放三大闘争の一つと位置付けた。狭山闘争は部落解放運動の中心となった。えん罪の背景にある教育、貧困、仕事等々も重要問題となった。小中学生による同盟休校、女性や青年たちが中心となった署名活動や要請ハガキ運動が展開された。狭山闘争は国民的運動となった。
石川一雄さん追悼と再審法の改正へ
4月16日に東京日本教育会館で「石川一雄さん追悼集会」が開催される。石川さんの無念を晴らすため、配偶者である石川早智子さんが第4次再審請求をおこなうことになる。
同時に再審法の改正が最重要課題となっている。昨年の袴田事件無罪判決は、「捜査機関による証拠のねつ造」が確定判決となる歴史的な出来事であった。これを契機に、国会でも各党の党首らがよびかけ人となって超党派の「えん罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟」が結成され、350人以上の国会議員が賛同している。改正再審法案もできており現国会で成立の可能性もある。証拠リストの開示、検察の抗告の禁止などが組み込まれている。
石川さんは1994年の仮出獄後、無罪を訴えるだけでなく、えん罪の要因としての「代用監獄」や「自白偏重」などの問題も取り上げていた。日本のこれらの制度は、市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)にも抵触すると主張して、運動を強化していた。
石川一雄さんの遺志を引き継ぎ、第4次再審請求に勝利し、再審法の改正を勝ち取る闘いに邁進しよう!